金山城から恵那明智城へ向かう予定であったが、可成の脛当が可児郷土歴史館に展示されているというので立ち寄ったら、目の前が久々利城で、職員の方に「ぜひ寄っていって下さい」と勧められ、予定を変更して踏み込んだ。ヒットでした。可児市郷土歴史館は、ここhttp://yahoo.jp/ijqNQ6
久々利城全景
エリア外なので城歴は可児郷土歴史館設置「久々利城跡パンフレット」を参考に簡単に済ませます。
久々利城は、守護大名土岐氏の一族久々利の城で、1400年代半ばには土岐久々利四郎、五郎、式部少輔が室町幕府奉公衆として京都に居住していた。久々利氏は天文年間、烏峰城(後の金山城)主斎藤妙春と争い、同17年に妙春を久々利城内で暗殺する。
戦国期の久々利氏は、信長の美濃攻めに対し武田と結び警戒するが、信長が美濃を手中にすると金山城に入った信長家臣森可成に従った。しかし、天正11年、可成に代わった長可により、久々利城は落城した。
登り口
下図の現在の位置。
久々利城跡の縄張図(登り口設置説明板を引用)
桝形虎口、三の丸、二の丸、本丸の呼称は左図に準拠、ローマ数字は、『岐阜の山城ベスト50を歩く』掲載中井均作図久々利跡概要図に準拠し、加筆した。ブログ説明用に適宜加筆し引用しつつ辿ります。
前編では、登り口から本丸へと辿ります。後編は、ローマ数字後方郭から西尾根へと辿ります。
まずは、桃囲い部、外郭線の構造。南斜面の竪堀、西斜面の横堀を辿ります。
専門エリアではないので、金山城同様に見聞を深める意義で見たままに記述します。
南斜面の竪堀
もう一本
虎口前広場
ヒットを確信。
しかし、そこは私、藪の横堀線から行きましょう。
コ字土塁、横堀線
横堀
奥に竪堀が二本あるようなので挑みました。
横堀前面の土塁がいいのだが、奥、藪の予感、しかも竹…
右側面頭上は三の丸が監視・支援する。
右側面頭上三の丸
竪堀は竹で到達不能
では桝形虎口
L型土塁で虎口前広場を区画し枡形を形作る。
横堀と合わせ、戦国後期に改修、構築されたものか
三の丸からの監視写真は後掲。
桝形虎口前広場から、城内への城門となる三の丸虎口へと辿ります。
桝形虎口もいいですし、そこから、城内入口城門までの終始頭上横矢・監視を受ける屈曲ルートも堪りません。
虎口前広場
右が虎口開口で、左はL型土塁の破壊口のようだ。
虎口突入
桝形に入る
桝形が形成されている
左側面頭上、三の丸が睥睨。
桝形先、ルートは三の丸監視下に屈曲し、進む。
三の丸が睥睨
あそこから矢玉を浴びる。
枡形先、屈曲ルート
屈曲により、側面・正面頭上(三の丸)から、監視・執拗な迎撃を受ける。
屈曲の後、いよいよ城内への関門となる城門へ
城内への関門となる城門
城門が閉ざされていれば(あたり前)、ここでストップ。
側面高く、三の丸
城内突入をはかる攻城兵は、停止したところを側面、正面から熾烈な迎撃を受ける。
城門はいると、頭上に二の丸が立ちはだかり、奥に本丸が屹立
左に三の丸、右、さらに屈曲しつつルートは城内二の丸方向へ
城門から屈曲ルートを振り返る
ここから城内
二の丸、本丸がまるで戦闘艦の艦橋のように統率
三の丸
右上、二の丸の完全監視下にあり、左下、枡形虎口から城門までの屈曲ルート、写真奥下に横堀線をを完全監視下に置く。
城門前を完全監視
屈曲ルートを完全監視
桝形虎口を完全監視
三の丸も、二の丸の監視下、本丸の統率下にある
二の丸へ
城門入り、ルートは突出した二の丸南東隅下で屈曲、東から二の丸へ向かう
東ルート、左側面頭上を二の丸監視下、進むことになる
ルートは、ここのみ。
うぃ
二の丸南東隅。
進むと左折れ登り、二の丸
奥に後方郭群。
側面頭上、二の丸、本丸
左折れ登り、二の丸へ
二の丸南東隅突出部
直下に城門、城内へのルート屈曲部を監視。
南東隅直下
城門、城内へのルート屈曲部を頭上監視。
帯郭状の先に二の丸主要部
直下に三の丸を完全監視
枡形虎口ー城門への屈曲ルート掌握が明瞭。
後背は本丸
本丸へは、東ルートにもどり、郭Ⅴをへて郭Ⅲ-本丸間の土橋で至る。
本丸へ向かいます
東ルートから本丸へ
後方郭Ⅰ・Ⅲ・Ⅴと谷状の郭Ⅵを挟んでカーブ。
郭Ⅰ・Ⅲ・Ⅴから横矢を浴びる…。
なんて城だ。
本丸と後方郭は土橋で接続
土橋の南西付け根に到達する。
土橋の付け根に到達
本丸への入り口は本丸北東部が櫓状に側面から固める
久々利城本丸へ
本丸南部
直下に二の丸・三の丸を監視、統率
屈曲ルートが芸的でさえある。
書き込みなし
眺望(方角は金華山方向か)
前編はここまで。
後方郭、後方遮断堀切、西尾根は後編で辿ります。
参考文献
可児郷土歴史館設置「久々利城跡パンフレット」
長瀬治義「久々利城」、三宅唯美・中井均編(2010)『岐阜の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版株式会社、pp.106-9