山口城は、わたしの記事中でもアクセスが多く、また様々なリクエストも頂いていました。
そこで前記事作成の平成24年時には到達できなかった北東尾根の郭4・中腹の二重塁線、北西尾根の四重堀切の写真を追加し、私の学力向上も併せてリニューアルいたします。
↓天正10年武田滅亡に際し、景勝が編成し北信に派遣した2つの軍勢のルート
(現国道18・292号を赤でなぞった)
越後と飯山を繋ぐ上杉の主要幹線が、概ね現在の国道292号線に沿ったルートで、越軍が富倉峠を越え信濃に舞い降りる地点側面に構築された城が山口城である。
越後上杉が飯山城を確保することは、上杉が信濃を望み、また越後国境を守るためには不可欠であった。その飯山城と越後との補給・連絡を維持するためには、この山口城もまた絶対欠くことのできない城であった。山口城は、飯山城が攻められた時の後詰め、そして飯山城が落城した際に越後侵入を計る敵勢から国境富倉口を図る守る城であり、それは謙信期の飯山城防衛、また天正10年武田滅亡時の織田勢の北信侵支配から越後侵攻、そして本能寺の変後に飯山城を確保し北信に打って出るためと、上杉の盛衰の重大局面において機能した。
山上郭1を主郭に、南(写真左)に郭2、郭3を堀切で区切り、配している。鳥居付近も弧状の平場があり(遠藤 2009)城域としていいようだ。北西尾根は鋭い四重堀切で厳重に遮断されている。
北東尾根にはは郭4を置き、その南下方の御屋敷との間の中腹に土塁を伴った堀ケ・コの二重塁線構造が構えられている。この防御ラインは、北東の備えを強化するために小城と連携し構築された構造と考えることもできる。
まずは御屋敷から
御屋敷
(城に登る林道途中から)
御屋敷郭内(地権者の了承を得、立ち入り撮影撮影)
写真右(南)の林中に虎口あり。
写真奥(東)下方に、もう一郭あり、馬場とされる。
南の虎口
東下方に馬場
では北東中腹に構えられた二重塁線構造を見ます。
矢印部、小城との間の谷奥から到達できます。
私は随分苦労しましたが、いとも簡単に到達できます。
パイオニアである、らんまるさん・あおれんじゃさんも、私と別のルートで苦闘されたようです。
小城との間の谷奥
谷奥、左に少し登ります。
私は、かみの啓示か苦難を選び、↑の急傾斜を攀じ登りました。
私はここを攀じ登りました。
途中間違いであることを悟りましたが、降り戻ることが不可能な急傾斜のため、比高110m直登するはめになりました。おかげて郭4に到達することができたのは収穫でしたが、郭4から主郭へはさらに藪が酷く進むことができず、木に掴まりながらトラバース降り直し、かろうじて艱難辛苦(命懸け)の末に目的の塁線構造に到達することができました。
しかし、私のブログ読者は幸運です。
藪期を避ければいとも簡単にその塁線構造に到達できます。
谷奥の段を南に。
すぐです。
…
登り口から振り返る
小城後背(北西)の三重堀切と、一線を成す防御ラインと考えることもできる。
郭・堀名は宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
に準拠。
宮坂先生は「小城ができた後に本城を築いたのであろうか」(宮坂 2014)としているが、遠藤公洋先生は『長野の山城ベスト50を歩く』のなかで「小城は、ある時期に山口城の北東部を拡張・強化し、富倉街道をコントロールする目的で、テラスとともに普請されたと観られる」としている。
小城も平成24年記事をベースに更新しました。
堀コ下端
背には傾斜面を背負う。
背の傾斜面
前面には土塁を備える。前面土塁の前傾斜面下には、下段塁線堀ケ・ケ前面土塁が構築されており、二重の塁線防御ラインを構成している。
掘コ底は箱状で、守備兵が屯集できる空間が確保され、また防御区画にも成りうるように見える。
南端
竪堀状に区切る。
堀コ前土塁
幅がある。土塁上から傾斜面ならびに傾斜面下の下段塁線堀ケを狙うことができる。
土塁上から前面の傾斜面と下段の塁線掘ケ
堀ケも背に傾斜面を背負い、前面に土塁を備える。
堀ケ
ケ北端は緩い竪堀状
前面土塁上の北東隅はスペースが確保され、櫓台様の機能があったものと考える。
隅の櫓台基部は石による補強がされていた可能性もある。
櫓台様スペース
堀ケ北東向き前面土塁塁線・北東隅櫓台様スペース下前面は、切岸下に、ほぼ平地の緩斜面がある。
二重塁線構造は北東山麓から寄せる敵に備え、天正10年3月から6月に景勝派遣軍によって構築されたものであろう。
遠藤先生は3月から4月と、より限定している(遠藤 2013)。
では南の鳥居から城内へ向かいます。
6月の写真(6・12月の写真が混ざります。見苦しい点はご容赦ください。)
鳥居前まで林道が通り、駐車スペースもありますが、乗用車は無理でしょう。
鳥居付近も弧状の平場があり(遠藤 2009)、この付近からを城域としてよいようだ。
かなり広いスペースを確保している。軍勢が100や200ではないことを物語るのではないだろうか。
写真奥(北)城内側に土塁と堀アが設けられ、堀アとで区切らている。
土塁の奥に堀ア
堀アには土塁が城内側にも城外側にも沿う。
土塁の開口が虎口であるもしれないが、破壊道かもしれない。
土塁、頑強な構築
堀ア
石積で補強された土橋で郭3に接続するが、城遺構か、後世の通路か、判別できない。
土橋左(西)
土橋右(東)
郭3から堀ア
頑強な遮断防御ライン。
前面土塁を胸壁とする土塁を伴った浅い堀とみるのは無理があるのではないか。
土塁より外を監視し難いと思う。
土塁外は後付けと考えることはできないだろうか。、それ以前はこの堀アが城域を区切る防御ラインで、堀アに左(東)の御屋敷から山腹を縫うように入るルートがあったと考えると、土塁の機能も、防御ライン・堀底への迎撃機能と考えることができる。
堀ア土橋から郭3への接続部は内枡形様の痕跡があるように見える
郭3
左(西)に長大な土塁。
富倉峠側を意識しての構築か。
郭3も後付けか。
西面土塁
削り残しによる造作のようだ。
郭3は城内側に一段高く3´が区画され、堀イにより郭2と遮断される。
堀イ
現在、堀アと同様に、堀を降り昇り、枡形様の区画に接続するが、『らんまる攻城戦記』では、左(西)に進み、帯郭を通路とするルートを提唱している。
堀イ東
堀イ西
こちらから帯郭へ接続したか(らんまる 2015)。
ここから山口城中枢の郭2・郭1になりますが、いったん区切ります。その2では、郭2・1、さらに藪で到達できる時期がかなり狭い北東尾根の郭4、北西尾根の鋭い4重堀切も加増した記事をおおくりします。
お楽しみに。
参考文献 宮坂武男(2014)『信濃の山城と館8』、戎光祥出版
川西克造・三島正之・中井均編(2013)『長野の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版
遠藤公洋(2009)「髻大城と長野県北部の城館遺構ー横堀遺構に着目した再評価の視点ー」、『市誌研究ながの』、第16号
参考サイト らんまる攻城戦記 http://ranmaru99.blog83.fc2.com/tb.php/704-818b3a18