古宮城2 | えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

 その2では、ルートを辿りながら、古宮城を堪能しましょう。
 
 まずは、北大竪堀下の北麓の出入口付近から、北大竪堀底を土橋Dまで、次いで大手ルートと郭2北西下土塁上で集合する地点まで辿ります。
イメージ 56
 
イメージ 1
北大竪堀下方
写真右側には大竪土塁が沿う。
 
イメージ 2
北大竪堀下方
右竪土塁にも切り口があり、東西両外郭土塁内に通行もできる。後ほど。
まずは土塁外の堀への接続をみます。
 
イメージ 9
北大竪堀下端
ガードレールの手前に外周の水堀の痕跡。
 
イメージ 13
外周の水堀
 
イメージ 10
外周水堀との接続部
橋で城外と接続していたか、あるいは城外が湿地であれば、船の出入口であったのではないか。
船を引き入れ、物資の積み下ろしをするゾーンと観る。
 
イメージ 11
堀に接続
堀城内側左(西)には外周の一重目土塁が囲う。
 
イメージ 12
下方から北大竪堀
竪堀底は、船から降ろした物資を引き上げる搬入路であった可能性がある。
山上に向かって右(西)に土塁切口があり、山麓を囲う土塁内平地に接続している。
 
イメージ 16
山上に向かって右(西)の切口
北大竪堀西の区画は大手ルートに接続し、中枢に至る。度肝を抜く構造が待ち構えている。後ほど。
 
イメージ 14
 左(東)は、現在竪土塁下部を乗り越すことができるが、西の切口とは明らかに違い、土塁で塞がれていたと考える。
 
 イメージ 3
竪堀東大竪土塁
乗り越え不可能。
 
イメージ 17
大竪堀西は竪土塁状の高地を段差で区画し、郭Ⅲまで三段の小防御郭が設けられているようだ。
その段差には、昇降は困難であろうが、物資を引き込むことができそうな切口もある。
 
イメージ 15
堀底登坂は、迎撃・妨害がなければ困難ではない。
 
イメージ 4
 登っていくと、郭Ⅰ北線ー郭Ⅲ北ラインで傾斜が緩くなり、横堀状に変化し、ややカーブする。
 この先は正面頭上に南西区画が待ち構え、また左側面頭上には郭Ⅰ西部が塁線土塁を伴い、土橋Dに至るまで厳重に監視される。
 
イメージ 5
見事に張出した南西区画が、、正面から迎撃。
 
イメージ 6
折れ歪みを伴った横堀形状にも見える
 
イメージ 7
奥は大竪堀上端 土橋D
右、郭Ⅲから虎口C前の屈曲部は、迎撃兵が横矢を掛ける左の郭Ⅰ西部・南西区画よりも低い。
 左の郭Ⅰに堀底からあがることは不可能だが、右に上がることは可能。しかし、上がったところで、さらけ出した身体に郭1から横矢を射込まれるだけ。
 
イメージ 8
土橋D(その1掲載写真)
 土橋Dには堀底からの高さがさほどない。堀底を引き上げた物資を付近で城内に受け入れることができる高さ造作であろうか。
 
 湿地の水運により、物資を集積するには、当該地域の水運を支配管轄していなければならない。
 謙信が根利道の権益を侵害したとして阿久沢氏に訴えられている例もあり、国人にとって街道や水運の支配権限は重要な権益だった。越後においては、景勝が豊臣大名となるに及んではじめて国人領内の街道・橋・水運の権限に介入できている。
 それほど重要な権益を元亀末から天正初期の段階において奥平が武田に差し出すであろうか。武田が軍勢を遠江・三河に進めるにしても、それは奥平(山家三方衆)の案内があってはじめて可能になる軍事行動であり、街道や水運といった奥平にとって重要な権益を差し出させるほどの強権を武田が奥平に行使したとは思えない。
 水運を利用して物資を搬入する勢力は、この地域の領主権を持った勢力であろう。それに武田の補給は現地での集積もあろうが、信濃から行われたと考えるのが妥当ではないか。天竜川のような信濃からの河川が流れていれば舟運による兵站補給も行われたと思うが、作手の場合、信濃から運ばれてくる物資の大半は牛馬に積まれて運ばれてきたことと考える。牛馬に積まれた物資を古宮城に搬入するために作手で船に積み替えるということは不合理ではないか。
 とすると、舟運を利用して古宮城に物資を集積した勢力は、奥平か、後の徳川になると考える。

 
 北大竪堀の西切口から竪堀西区画に入り、大手土塁上ルート(白ルート)に合流しましょう。
 
イメージ 57
 
イメージ 19
北大竪堀下方西切口を入ります。
 
イメージ 18
入ると、外から二重目の土塁内
左に、三・四・五重目となる土塁線が…。
 
イメージ 55
 段々の小テラス状区域を経て、三・四・五重目の三重の土塁線(郭Ⅱ塁線も含めると四重)が、北から西に向かって構えられている。それらは郭Ⅱ塁線北西隅監視下にある五重目土塁上(大手ルート)で集合する。このような構造は、北信・越中の武田・上杉城郭で私は見たことがない。三重目の土塁は低く(50cm)、横堀内から射撃を行ったと考える。五重目と四重目の間の堀底を通行したと考える。(2020.2訂正)。
 
イメージ 20
五重目・四重目間の堀底は明確に通路状。
四重目塁端は城戸を想わす構造にも見える。
 
イメージ 60

          三重目土塁、三重目と四重目間の堀底。射撃陣地運用ではないか(2020.2訂正)。

 
イメージ 61
 四重目土塁端が、ちょうど城戸監視のように際立つ。後ほども触れるが、四重目土塁端と、これら塁上に小石を寄せ集めた構造が随所にある。作手山城案内人原田純一に伺ったところ、近現代の境界を示すものではないか、との見解をいただいた。私は旗塚のような、旗を立てる基礎ではいかと考える。これは、あくまで私のロマン思考であるが、城側の旌旗を立て、勢威を示した可能性もあるのではないか。
 
イメージ 62
 累々に旌旗立ち並ぶ威容を思うと身震いがする。
 その勢威を示す方向は、北、あるいは北西で、作手街道の北に向かって(作手街道を作手に南下する勢力に向かって)である。 
                   ここで北大竪堀下方西切口を見下ろしてみます。
 
イメージ 21
 侵入者は水堀から北大竪堀下端に入り、右に折れ、この出入口を入る。そこは、段々の小テラス区域ならびに上の塁線からも完全な監視下にある。
 
イメージ 22
 折れ構造により、入るまで累々とした内部構造は見えない。入って、あの累々を見たら度肝を抜かれることだろう。その時には射殺されていそうだが。
このような出入口構造も北信の武田・上杉城郭では見ない。
 
  では、城の南西、A虎口から大手ルートを辿り、集合します。
 

       
大手は、城の南西部が推定される。
 
イメージ 59
 
イメージ 23
大手と考えられる南西部は、民家敷地に接していて、現況ではどのような構造であったかはわからない。
 
イメージ 63
大手は、作手街道に接し、方向としては亀山城方向に設けられていることになる。
通常、城の大手は自領(自勢力)側に向かって設けられる。
 
イメージ 25
 西は唯一の陸続き部で、外周に堀、内に三~四重の土塁線を設け防備を固めている。西と言っても北西面にあたり、先述の北大竪堀とで囲い込んでいる。
その囲い込みで備えているのは、北西方向で、作手街道を北から南下する勢力に対してである。
 
イメージ 24
囲い込む土塁
私のその2のテーマはルートに絞ってあるので、このエリアは深入りはせず、後ほどルート上から俯瞰します。
 
ルートに戻ります。
 
イメージ 58
 白ルートをB虎口付近まで辿ります。
概ね佐伯提唱大手ルートです(愛知の山城では詳細まで記述されつくしていない)。
 
イメージ 26
街道との接続構造は分からないが、大手虎口Aに向かう道は雰囲気が残る。
 
イメージ 27
横堀線に番所風
先、左に折れると虎口A。
見通せていない。
 
イメージ 28
横堀線
 
イメージ 29
クイっと左折れ
 
イメージ 30
桝形様の虎口Aに入る
右手は高く桝形を固める。
これも武田の虎口ではないのではないか。
 

イメージ 31

正面奥には高く郭Ⅱ
郭Ⅱからの監視状況は、その1に掲載。
右にコの字状の小郭が隠れている。
左側面には土塁囲いの郭Ⅳ。
これは武田構造とは異なる構造で、また、亀山城類似と観たほうが妥当ではないか。
 
イメージ 32
右のコの字状の小郭
馬でも繋いだか、城兵が隠れていたか。高地は櫓台状に優勢に立てる。
 
イメージ 33
左側面に土塁囲いの郭Ⅳ
 
イメージ 42
郭Ⅱから俯瞰(その1掲載)
 
イメージ 34
虎口A入ると郭Ⅱ南西隅直下にぶち当たる
大手ルートは左(西)に折れ、郭Ⅱ下土塁上通路を西から北へ回り、虎口Bまで周る。
右方向は佐伯は紙面の都合か記述していない。
先に右方向に進んだ場合の現況を見ておこう。
 
イメージ 35
 ガバっと約30mにわたりえぐられている。現況では上端を通過でき、郭Ⅱ南切岸下をまわり土橋Dに至ることができるが、往時は南回り(上端通過)はできなかったのではないか。できたとしても、頭上の郭Ⅱの妨害があっては、崖に落とされ通行は無理であろう。
 
イメージ 36
虎口A入って郭Ⅱ切岸下にあたり、左
郭Ⅱ切岸下横堀を進んだところで、郭Ⅱ頭上からの迎撃を避けることはできず堀底で殺されるだけであろう。
土塁上を進む。
 
イメージ 37
西から北に陸続きが想定される面には、累々と備えている。
先ほど深入りせず戻ったゾーン。
 
イメージ 38
内土塁線は、北に向かい備え構えるように大手ルート土塁と組み合わさった構造になっている。
 
イメージ 39
 この備え、繰り返して書くが西から北に向かって(作手街道を北から南に南下する勢力に対し)構えられている。
 
イメージ 40
大手ルートと組み合わさる
 後に強化したとか、改修という構造ではなく、最初から作手街道を南下する勢力に対し構築された構造と観る。
 
イメージ 41
大手土塁ルート
一列で、右側面高所の郭Ⅱから終始横矢を掛けられながら、ここを通過しなければならない…。
 
イメージ 43
 堀底も歩行は可能だろうが、這い上がることは困難。這い上がるもなにも、郭Ⅱから頭上射撃を受けたら逃げようもない。また土塁上・堀底ルートを攻め入るのではなく、北西から軍勢で波のように寄せたとしたら、累々・堀底が防波堤や波消ブロックのように機能し、防御ラインとなる。そこを上の塁々から迎撃すればよい。
 
 防御ラインの構築という発想も、上杉では天正にようやく顕れる構想で、織田との越中戦線における織田との抗争の中で戦国後期に発達していった城郭構想と考えている。
 
イメージ 46
土塁上には先述の土塁上の石を集めた構造が随所にある。
私は旌旗を立てる基礎と観るが、原田は近現代の境界を示すものではないかとする。
またまた繰り返すが、これらは北西に向いている。作手街道を南下する勢力に対し向けられているのである。
 
イメージ 47
北麓からの土塁線が集合する付近にもある。
 
イメージ 44
三重目土塁が北下から接続する。
 
イメージ 45
四重目も
 
イメージ 50
集合地点は、側面頭上郭Ⅱから、完全に捉えられている。
 
イメージ 49
集合地点を郭Ⅱからみる(その1掲載)
 
イメージ 48
さらに、北大竪堀下端からの出入口を見る。
累々、厳重に見張る。
 
イメージ 51
そしていよいよ古宮城中枢への最厳重関門区域。
虎口Bー郭Ⅲー虎口Cー郭Ⅱ東部が厳重に重なり、寄せ手の侵入を阻む。
 その1で記述したが、そこは、防御構造が従深に重なるだけでなく、郭Ⅰ西部・南西区画から執拗に横矢を受けるのである。
 
イメージ 52
もうひとつ小技を。
 虎口C前の屈曲部は、この土塁通路に対し土塁を備えている。郭Ⅰ側には土塁はない。つまりこの土塁通路を城中枢に向かう敵に対し、虎口C前の屈曲部に居る城兵は土塁に拠って撃つことができる。土塁上通路を進む敵は身を晒している。もちろん右側面高く、郭Ⅱが横矢を掛けている。
 
イメージ 54
虎口C前屈曲部土塁から大手土塁通路を見る。(その1掲載写真)
 迎撃兵は、土塁に拠っているが、この背には土塁はない。つまり、この屈曲部に至った寄せ手は背の郭Ⅰ西部に身を晒して横から射られるのである。
郭Ⅱからの横矢にも晒されながら、ここを通ってくることなどできるであろうか。
古宮城、二部構成の予定でしたが、三部構成にします。
 
イメージ 53
その3で、虎口Bから中枢部に突入します。(その1掲載写真)
その2で見てきた中に、私は武田の要素を感じない。
馬念さんにブレーキを掛けられています…。
 
参考文献 愛知中世城郭研究会・中井均編(2010)『愛知の山城ベスト50を歩く』、サンライズ出版
       徘徊後、原田純一作手山城案内人より数多くのご教示をいただいた。