水尾城(魚津市鹿熊) | えいきの修学旅行(令和編)

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松倉城駐車場説明板に加筆
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松倉城の西、早月川を前面に、丘陵上に城塞群がある。
石の門は、西から松倉城下へ入る「山の道」に対して構えられた門で、両翼に升方城、水尾城を配し、西から松倉城に迫る脅威に対し備えている。
 
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 西から迫る脅威とは、魚津城ー松倉城に迫る織田麾下柴田勝家勢であり、構え備えた者は、越後上杉景勝麾下須田満親であろう。(あえて須田を出したのは、信濃桝形城の普請者が須田である可能性を調べているので、その伏線)
 
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現地説明板にブログ説明用に白字加筆
 石の門側、白○囲い部に、塁線・櫓台を備えた虎口を設け、その虎口は「②地点から後矢まで掛けている。虎口単独の防御ではなく、縄張り全体での防御態勢変化している点に注目したい」(佐伯 2012,p.42)
と天正期上杉の普請とみることができる。また、空堀アの鋭さ・堀底に土橋を設けている構造も、越後での天正期上杉の普請と推定する椿沢城、黒田城類似の構造とみてよいとのではないだろうか。
 
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上図現在地地点まで林道が通る。
ヤフー地図、林道が表示されないので位置のみhttp://yahoo.jp/BIZpVy
城はこの奥ではなく、左側。説明板手前に堀ウに入る路?があります。
 
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ここを突入
 
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ややためらいがありましたが、すぐウ堀底です。ためらわず突入しましょう。
橋がかかっていています。遊歩道でも整備していた頃があったのでしょうか。
橋を過ぎ堀底右側(C郭側)に、石積の痕跡がある。
 
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B郭からC郭をみる
雨が降り始めていたのと、橋の劣化が際どく、C郭には踏み込みませんでした。
C郭南(写真奥方向)は土塁が設けられ、堀切と土塁で尾根続きを遮断している。
 
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石積痕跡
 
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B郭
 
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B郭北 堀イ
奥はA郭
ここも橋が架かっているが、往時も木橋架橋と思われる。
右側に木橋を中継する台があり、A郭高地から伸びる土橋に架けていたようだ。
 
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佐伯推定架橋部
この架橋により、A郭から横矢が掛かる構造になる。
 
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線なし
 
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A郭高地
A郭は北に緩斜面状に広く、この高地が郭を掌握している。
 
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A郭③部
ここも郭内の虎口のようだ
 
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で、白○囲い部の櫓台を備えた虎口と塁線
虎口侵入を図る寄せ手に横矢・後矢が掛かる織豊ではない天正期上杉のハイテク普請
 
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線なし
 
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櫓台と虎口
 
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虎口から塁線をみる
②が張出し、虎口侵入を計る寄せ手に後矢を掛けている。
 
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馬念さん、待ってぇー。
 
北東隅方向へ
 
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おっと落ちそう
A郭北東堀切ア
 
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凄!
底に土橋がある
 
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ななめから
たしかにある。
佐伯先生は土橋の前の一郭を馬出曲輪の性格と評価する。
(2021.12.6追加)
 
水尾城は、升方城とともに、上杉が織田勢と直接戦闘を交わす想定の普請であり、天正10年当時の上杉の滅亡・生き残りを懸けた厳しい情勢の雰囲気と、普請技術の粋を見ることができる貴重な城郭遺構であると思う。山奥ですのでクーさん対策は必要です。
 
 参考文献 佐伯哲也(2012)越中中世城郭図面集Ⅱ』、桂書房
        現地説明板