松倉城駐車場説明板に加筆
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/dc/05/j/o0448025214510071792.jpg?caw=800)
松倉城の西、早月川を前面に、丘陵上に城塞群がある。
石の門は、西から松倉城下へ入る「山の道」に対して構えられた門で、両翼に升方城、水尾城を配し、西から松倉城に迫る脅威に対し備えている。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/64/c4/j/o0400026714510071799.jpg?caw=800)
西から迫る脅威とは、魚津城ー松倉城に迫る織田麾下柴田勝家勢であり、構え備えた者は、越後上杉景勝麾下須田満親であろう。(あえて須田を出したのは、信濃桝形城の普請者が須田である可能性を調べているので、その伏線)
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/af/f3/j/o0448019214510071801.jpg?caw=800)
現地説明板にブログ説明用に白字加筆
石の門側、白○囲い部に、塁線・櫓台を備えた虎口を設け、その虎口は「②地点から後矢まで掛けている。虎口単独の防御ではなく、縄張り全体での防御態勢変化している点に注目したい」(佐伯 2012,p.42)
と天正期上杉の普請とみることができる。また、空堀アの鋭さ・堀底に土橋を設けている構造も、越後での天正期上杉の普請と推定する椿沢城、黒田城類似の構造とみてよいとのではないだろうか。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/a9/42/j/o0314021014510071804.jpg?caw=800)
上図現在地地点まで林道が通る。
ヤフー地図、林道が表示されないので位置のみhttp://yahoo.jp/BIZpVy
城はこの奥ではなく、左側。説明板手前に堀ウに入る路?があります。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/7d/e7/j/o0314021014510071806.jpg?caw=800)
ここを突入
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/16/5b/j/o0314021014510071809.jpg?caw=800)
ややためらいがありましたが、すぐウ堀底です。ためらわず突入しましょう。
橋がかかっていています。遊歩道でも整備していた頃があったのでしょうか。
橋を過ぎ堀底右側(C郭側)に、石積の痕跡がある。
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/08/07/j/o0400026714510071811.jpg?caw=800)
B郭からC郭をみる
雨が降り始めていたのと、橋の劣化が際どく、C郭には踏み込みませんでした。
C郭南(写真奥方向)は土塁が設けられ、堀切と土塁で尾根続きを遮断している。
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/12/c7/j/o0314021014510071815.jpg?caw=800)
石積痕跡
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/06/51/j/o0400026714510071818.jpg?caw=800)
B郭
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/71/4c/j/o0400026714510071822.jpg?caw=800)
B郭北 堀イ
奥はA郭
ここも橋が架かっているが、往時も木橋架橋と思われる。
右側に木橋を中継する台があり、A郭高地から伸びる土橋に架けていたようだ。
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/cd/13/j/o0400026714510071827.jpg?caw=800)
佐伯推定架橋部
この架橋により、A郭から横矢が掛かる構造になる。
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/9a/1a/j/o0400026714510071833.jpg?caw=800)
線なし
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/e6/e0/j/o0400026714510071838.jpg?caw=800)
A郭高地
A郭は北に緩斜面状に広く、この高地が郭を掌握している。
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/3b/3e/j/o0400026714510071842.jpg?caw=800)
A郭③部
ここも郭内の虎口のようだ
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/a2/f5/j/o0400026714510071847.jpg?caw=800)
で、白○囲い部の櫓台を備えた虎口と塁線
虎口侵入を図る寄せ手に横矢・後矢が掛かる織豊ではない天正期上杉のハイテク普請
![イメージ 18](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/da/4d/j/o0400026714510071853.jpg?caw=800)
線なし
![イメージ 16](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/29/c9/j/o0400026714510071854.jpg?caw=800)
櫓台と虎口
![イメージ 17](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/f3/a9/j/o0400026714510071858.jpg?caw=800)
虎口から塁線をみる
②が張出し、虎口侵入を計る寄せ手に後矢を掛けている。
![イメージ 19](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/c6/cf/j/o0400026714510071865.jpg?caw=800)
馬念さん、待ってぇー。
北東隅方向へ
![イメージ 20](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/cc/fc/j/o0400026714510071870.jpg?caw=800)
おっと落ちそう
A郭北東堀切ア
![イメージ 21](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/aa/11/j/o0400026714510071876.jpg?caw=800)
凄!
底に土橋がある
![イメージ 22](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/23/mei881246/2b/7f/j/o0400026714510071880.jpg?caw=800)
ななめから
たしかにある。
佐伯先生は土橋の前の一郭を馬出曲輪の性格と評価する。
(2021.12.6追加)
水尾城は、升方城とともに、上杉が織田勢と直接戦闘を交わす想定の普請であり、天正10年当時の上杉の滅亡・生き残りを懸けた厳しい情勢の雰囲気と、普請技術の粋を見ることができる貴重な城郭遺構であると思う。山奥ですのでクーさん対策は必要です。
参考文献 佐伯哲也(2012)越中中世城郭図面集Ⅱ』、桂書房
現地説明板