見附城
標高170mに城山山頂に築かれている
見附城は、越後中郡にあって、古志長尾(栖吉・蔵王堂・栃尾城)と三条城を繋ぐ、重要中継拠点であった。
御館の乱時の状況と位置関係
白が景勝方
赤が景虎方
見附城は、景虎方古志長尾(栖吉・蔵王堂・栃尾城)と三条城神余を繋ぐ、重要中継拠点であった。
見附城には丸田掃部助(二代目伊豆守)、大面城には丸田伊豆守が景虎方として居たという。
天正8年(1580)、越後中郡制圧を目指す景勝は、栃尾城を攻めるにあたり、村山弥兵衛に見附城の丸田掃部助を説得、調略させ成功。4月22日栃尾落城、7月7日三条城落城と繋がり、見附城の帰趨が、景勝の中郡制圧の鍵となった。
また、若き謙信(長尾景虎)が、栃尾城に拠り中郡に覇を唱えた時代も、同様に重要な拠点であったことであろう。
総持寺から遊歩道が整備されています。
左へ
午前中にスリリングに大面城を巡ったので、公園を歩く気分です。
物見の郭でしょうか
山頂を目指します
この先、左に折れあがり、見附城主郭
高地が山頂 主郭
↓見附市史より引用(ブログ説明用に茶字加筆)
山頂を南北約80m、東西約30mの主郭とし、北は堀、南は急崖、東西に帯郭を配している。主郭北西隅には櫓台状の土塁を備え、西の帯郭には畝型阻塞を7基配している。
現在、遊歩道は南東隅から虎口状に入るが、郭を経ずに主郭へ至るのも変で、これが戦国の出入口であったかはわからない。
畝型阻塞と主郭際の間を通る、主郭切岸下帯郭を周回するルート設定があったのではないだろうか。
写真大きくします。
折れるところ、先に東帯が見える
主郭への遊歩道
現、主郭への出入口
虎口に見えるが
どうか
見附城主郭南部
奥 西面切岸下に畝型阻塞。
主郭は右(北)に長方形に広く、北西隅に櫓台状土塁が残る。
左側南面は急崖。
南西方向眺望
主郭北西
主郭西切岸下帯郭
畝型阻塞
西面切岸下をずずぅーと埋める。(際には接していない)
いざ
うりゃ
うりゃ
うりゃ!
見附市史では7条となっているが、私が数えたところ、8基に見える。
北西隅
櫓台状土塁
この隅から畝型阻塞が配された西帯郭に降りることができる。
北西隅から西帯郭に竪土塁土橋状に繋がっている。
際には横堀状に残雪があり、この際の堀はルートだったのではないかと私は思う。
栖吉城、大場沢城、越中井田主馬ヶ城など、そうしている。
栖吉城では、登城者に見せるかのように威容を放ち、置かれている。(私の感想)
次回記事で畝型フェチ集を作ります。
北西隅櫓台状土塁上
虎口状に掘られているところから、竪土橋状に西帯郭に降りることができる。
北西隅からの降り口
こっちからの角度もいいので
もう一枚
降りました
この、上端と主郭切岸下際との間を通らせた可能性もあると思う。
北西隅下
主郭へもどり、東帯郭、北の方向を見ます。
主郭北部
主郭から東帯郭
西も東も帯郭と書いたが、広く、西郭・東郭でいいのではないか。
北 降り口
遊歩道による造成か、広い。
土橋、箱堀、と思ったが、遊歩道造成による土橋であろう。
当時、関門があったとしてももっと厳しい造りであったと思う。
土橋右
箱堀というより東郭の延長で、主郭下を東ー北ー西につながった帯郭ということか。
御館の乱後、丸田周防守(見附市史では掃部助あらため父の跡を継いだ人物・初代伊豆守弟・二代目伊豆守次男ともされている)は、菅名荘(丸田氏本貫の地であったようだ)に戻り、菅名口または越中戦線の戦備についている。文禄期には見附領820石6斗余は嶋倉孫左衛門に宛がわれてる。
見附城は役割を終え、北東約2kmの大面城に景勝側近の泉沢久秀が在番衆を率いて入り、大面城が景勝政権中枢の城として機能していく。
大面城は、上杉の鋭い切岸、近代的普請である竪堀を登城路とした通路・虎口(えいき私説)、虎口を備え、景勝の武威を示している。
参考文献 見附市史