池田城2 | えいきの修学旅行(令和編)

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 その2ではⅤ郭切岸下、堀ロ際からⅤ郭にあがり、切岸上の郭を辿ります。郭はよく削平されていますが、機能的に連携する虎口がみられません。佐伯氏は、城主の統率力の弱さを現しているとしています。
 その2で取りつく道は、厳しく、往時はなかったかもしれませんが、Ⅳ郭切岸下櫓台城戸で塞がれ、立ち往生する寄せ手に、背後から襲撃する部隊を出撃させる運用があったかもしれません。寄せ手は討たれるか、櫓台城戸前の竪堀を滑り落ちていくことになります。
 
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堀ロの際からⅤ郭切岸を登ります。
 
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厳しいルート
左は崖ですから落ちないように。
 
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Ⅴ郭端へ取り付く
 
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Ⅴ郭
奥にⅣ郭、Ⅲ郭
 
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郭と郭に虎口はなく、切岸で区画されている。
左、竪堀ハは、なかなか鋭い。
 
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竪堀ハ
 
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Ⅳ郭
 
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Ⅳ郭からⅢ郭切岸を見上げる
 佐伯氏の記述どおり、切岸が厳しく、敵兵の進行も遮断できるが、連絡も遮断されてしまうので各曲輪は合戦時孤立してしまう可能性がある。
 
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Ⅳ郭からⅤ郭を見下ろす
切岸、竪堀と厳しく、要害堅固であるが、(『縄張全体で敵兵の攻撃を防御する縄張にはなっていない。』)佐伯哲也『越中中世城郭図面集Ⅰ』
 
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切岸隅を登りⅢ郭へ
機能的に接続していない。
 
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Ⅲ郭
奥にⅡ郭
 
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Ⅱ郭際に右からその1で辿ったルートが入る。
Ⅱ郭へは左にスロープ状に接続したようである。
 
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Ⅱ郭際に、その1ルートが入る。
 
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直上から
ここに枡形掘って、折れていれば、と思ってしまう。
 
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あがってきた敵は(味方も)、Ⅱ郭切岸下際を通り
 
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スロープ状にⅡ郭へあがったようだ。
左下段の郭の端は、これまた鋭い竪堀(自然地形利用)
 
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スロープ下下段郭南東端竪堀
凄っ。
 
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Ⅱ郭へ
ここも虎口の造作はない。
 
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Ⅱ郭
奥、一段高くなり(佐伯B)、主郭
 
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一段高い区域(佐伯B)から主郭へ
主郭も虎口の造作はなかったようだ。
 江馬も、三木も、虎口は発達しなかったようで、上杉、織豊よりも一次元低い(旧い)普請能力であったのだろう。
 
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池田城主郭
 説明板の奥に櫓台様の高まりがある。高まりの左右にも郭は広がっている。楼が揚がっていたとしても、防御・見張り用途ではなく城主がなにか下知をしたりする櫓であろうか。
 
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主郭東下、郭がある。
ちょうど先のスロープ下下段郭南東端竪堀の対岸にあたる。
 
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主郭南西部
この端から尾根伝いに搦手となっていたようでるが、堀ニ、ホと二重に遮断している。
 
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主郭南西端下 二重堀切
写真だとよくわかりませんが、けっこう凄い。
 
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途中まで降りて
 
 永禄末期に椎名ー武田と繋がり上杉に抗戦した、越中在地領主寺嶋氏の城、池田城でした。
(河上富信が城主とする伝承もあり、寺嶋氏没落後、中地山城の河上富信が在城した可能性もある)
 
参考文献 佐伯哲也『越中中世城郭図面集Ⅰ』
 
次は上杉の元亀・天正の利用が史料でも裏付けられ、近代的(天正期)な上杉の普請が見られる樫ノ木城を紹介します。