池田城(富山県新川郡立山町池田) | えいきの修学旅行(令和編)

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  城歴は、「池田城と樫ノ木城」https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496891096.htmlからご覧下さい。

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 西から県道168の川を渡る橋の手前で林道を右にはいる。数分で、左手に←順路看板と説明板が設置されている。
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ここを入ります
私は、ここまで来て積雪で2度断念。
雪の降る前にもう一度来て、クーさんに遭遇して退却、今回が4度目の攻城です。
 
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溜池に突き当たります。
池田城へは池にあたり、左の尾根へよじ登ります。右に行くのは困難かつ危険です。(私、突入しました)
 
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 尾根によじ登る時はなかなか困難ですが、よじ登ると、あとは尾根伝いに比較的楽に歩けます。
 しかし、クーさんがお住まいなんです。
 秋の訪城時は、この辺からなにやらガサゴソ音がしてました。「誰か山菜とりですかぁー」と声を掛けながら、鈴を鳴らしながら行きました。
 
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この尾根鞍部を越えると城域で、大手登路堀底道になります。
 
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鞍部から見上げた先に、大手堀底道
 
 なのですが、三度目の訪城時、右の木の上から黒い、それは黒い、もろに黒い塊が降りて(落ちて)きました。そのあまりの見事な黒さは、疑う余地の全くないクーさんでした。池脇から寄り沿っていていただいていたのでしょう。ほんの15mくらいの距離で木から降りてこられたので、戦ってやろうか、とは思いませんでしたが、私には向かって来ず、山の上の堀底道に向かって走っていかれました。
ので、その時は退却し、熊スプレーを購入装備し今回の訪城となっています。
 
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尾根上、堀底道
いよいよ城域。
 
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堀底道の先は、土橋
土橋の先、左手には櫓台上の高まりがあり、一人づづ進む敵を狙っている。
なかなか堅固。
両側は自然地形を竪堀状に削いで、土橋としている。
 
土橋左側堀イ                 土橋右側
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土橋の先、左手に櫓台状に高く、土橋を進む寄せ手は弓鉄砲で狙撃される。
ここの突破は、なかなか厳しいであろう。
 
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櫓台の横を抜け、尾根上を進む
 
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尾根上堀底道伝いに進むとⅤ郭切岸下にぶち当たる。
 
縄張図

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 越後上杉、織豊佐々・前田の改修は見られない。永禄末まで使用され、謙信に抗戦した、越中在地領主の城である。戦国初期の堀切、削平郭といったレベルではなく、櫓台を備えたルートが設定された、なかなか鋭い防御機構をもつ城である。虎口が見られないことと、郭と郭の連携が、上杉・織豊のレベルにまで至っていない。
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尾根上堀底道から、Ⅴ郭切岸下へ
 
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Ⅴ郭切岸下
左に堀ロ
 Ⅴ郭切岸下にぶち当たり、ルートは右に切岸下を通るように設定されている。その先、櫓台、城戸が想定できる。
 現在、見学路(というには険しいが)が左に切岸よじ登るように誘導されている。
 
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堀ロ
ロを掠め、Ⅴ郭へ登る道がある
郭上はその2で。
 
ではルートを進みます。
 
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Ⅴ郭・Ⅳ郭切岸した、頭上から迎撃を受け通る設定
 
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ルート下(西)にはⅥ郭(佐伯先生はF郭としている)
千畳敷と称される。
籠城時居住スペースのようだ。
 
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ート先に櫓台
 
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櫓台に守られた城戸があったであろう
櫓台手前、右に滑り落ちるような竪堀が走っている。
 
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櫓台手前、滑り落ちるような竪堀
 櫓台城戸で塞がれ、立ち往生する寄せ手は、ここから滑り落ちるのだろうか。
 
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城戸の先
佐伯先生は、櫓台、F郭(Ⅵ郭)の孤立の可能性を指摘している。
 
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道はⅢ・Ⅳ郭下を抜け、Ⅱ郭下に向かう
 
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Ⅱ郭下で左に折れ
 
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Ⅲ郭へ
 
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この通路、正面Ⅲ郭から撃たれ、右上Ⅱ郭から横矢が掛かる。
 
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郭から通路を見る
上杉が後に利用したのであれば、枡形でも掘って虎口を造成したであろう。
 
池田城、このように、虎口はみられないが、考えられたルートが設定され、堅固な要害となっている。
 
その2で郭を辿ります。
 
 参考文献 佐伯哲也(2011)『越中中世城郭図面集Ⅰ』、桂書房