護摩堂城(田上町大字田上字護摩堂他) | えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行(令和編)

えいきの修学旅行を綴ったブログです(ヤフーブログから移設しました)。

護摩堂城
イメージ 8
 平賀氏の城であったようで、為景期の越後の内乱でも重要拠点として度々文書に登場する。
 天正3年軍役帳では、平賀左京亮は鑓62、手明10、鉄砲7、大小旗8、馬上11計98名の軍役を担っていた。御館の乱では、子惣左衛門は景勝に味方したようだが、左京亮は景虎に与し、天正6年6月11日、御館近くで景勝方と合戦、古志十郎景信共々討ち死にする。
「-、 昨十一御館へ相動候処、取出候間、即及一戦砌、十郎方・平賀左京亮・一騎合之者共数百討取之外、又者 □ 之為名字者三百余 □ 候、被討殺不知数候、-後略」 (上越市史別編1542)
左京亮討死後、三条城に対する景勝方拠点として千坂氏が入り、対戦する。三条落城後は、北の新発田重家の反抗に備え、甘粕備後守景継(上田衆登坂清高の子)を城将とした。天正14年2月6日、景勝は、ごまたう に普請を命じている。「今度三ヶ所之寄居・門・道具、誰領分成共可令剪用候、-後略」(上越市史別編3083)
 上杉の会津移風後、堀氏には使われなかったようだが、越後遺民一揆では一揆方が立て籠った。
                 
↓現地説明版
イメージ 14
 城域は東西約600m、南北約450mと南蒲原最大・新潟県内でも大型山城であるが、アジサイ公園として遊歩道が(中)出曲輪から主郭へ向かい貫き、歩きやすい。
広大でもあり、的をしぼって紹介します。
 主郭東は急崖のため普請されず、北に二郭、三郭、西に向かう北、中、南の尾根に出曲輪を設け備えている。
 特に主郭西から南には鋭い切岸、横堀、腰曲輪群、箱掘を配し、厳しく備えている。蔀、桝形を用いた虎口も見られる。(その1はここから紹介します。)
 主郭の北には、二郭・蔵屋敷、三郭・新津曲輪(桝形虎口有)を配している。
 
イメージ 15
遊歩道登り口
上図、(中)出曲輪の尾根伝いに登る。
あじさい公園として整備され、ひっきりなしに登城者(登山者)が歩く。
麓周辺には湯田上温泉もあり、越後の山城にしては賑わっている。駐車場http://yahoo.jp/s11TLu
 
イメージ 16
麓の湯田上温泉にある真言宗東龍寺
平賀宝山の位牌と墓がある。とされているが、わからなかった。
こお寺門前脇からも遊歩道にあがれます。
 
イメージ 17
遊歩道
 
イメージ 18
途中、谷砦脇を通ります。
遊歩道左の小高くなっていく藪が谷砦
このふきん、右に二重堀跡
 
イメージ 19
谷砦本丸?への枡形
枡形奥が谷砦主郭
 
イメージ 20
谷砦東の堀切
この堀むこう斜面に畝型竪堀
 
イメージ 1
畝型竪堀
 現状ではよくわからないが、実測した鳴海忠夫氏の縄張図には5条記されており、痕跡があるのであろう。
あじさい公園として、多くの方が訪れる公園として整備される過程で、城遺構は無視されたようだが、近年、残っている貴重な城遺構を見学できるように、見学路と説明版が設置された。鳴海忠夫さんの渾身の調査が、行政を動かしたのであろう。
 
イメージ 2
何か所かの堀切をみながら遊歩道を進みます。
 
イメージ 3
中)出曲輪の堀切を渡る土橋
 
イメージ 4
中出曲輪から、いよいよ本城域へ
 
イメージ 5
左、遊歩道
右、近年設置された城遺構見学路
 
イメージ 6
やっぱり、こっちでしょ!
主郭西下、横堀下の腰曲輪群へ
枡形や蔀石塁が残る。
 
イメージ 7
桝形
直方体ではない
 
イメージ 9
枡形の先、蔀石塁
 
イメージ 10
蔀石塁 城内側から
U型のようだ。
 
イメージ 11
さらにその上、横堀防御ラインが主郭を守る。
 
イメージ 12
横堀
箱状で、越後上杉の城遺構では、極めて発達した普請
遺構の保護、安全上の問題から、立ち入ることができない。
 
イメージ 13
西面 鋭い切岸
 護摩堂城は、(中)出曲輪から続く尾根に対し、腰曲輪群、箱状鋭い横堀、鋭い切岸で、重厚に厳重に備えている。
 
その2へ続きます。
参考文献 鳴海忠夫[南蒲田上町護摩堂城跡について]