色部氏 その1 平林城三の丸 | えいきの修学旅行(令和編)

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慶長2年瀬波郡絵図に描かれた色部氏居館平林城と、要害加護山古城
 この図に記された色部竜松丸の知行高は、4868石である。謙信期の天正3年軍役帳では、色部弥三郎(顕長)は鑓160、手明20、鉄砲12、大小旗15、馬上20、計227の軍勢を擁する、揚北最大の国人領主である。
 建永元年、平姓秩父為長は父季長から、小泉荘の内、色部条などを与えられ色部氏を称するようになったと思われる。為長の嫡子公長は、宗尊親王の征夷大将軍就任に伴う祝賀行事には直垂衆に名を連ね従五位下右衛門尉、宗尊の御所に詰める見参結番として将軍の側近く仕えるほどの御家人であった。
 
色部氏居館平林城と、背後の要害加護山古城
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 戦国期、享禄・天文の乱の最中に死亡した当主憲長の後を継いだのが勝長であるが、幼少であったため家中は家臣団が運営した。そのため天文4年(1535)重臣3名が出奔し、本庄房長の刷(あつかい)による調停を求める事件や、伊達時宗丸入嗣問題・伊達天文の乱でも家中の混乱があった。自らの家中が混乱している状況でも、勝長は揚北国人間の相論を刷う仲裁役に立たされた。それが、時に越後守護代となっていた長尾景虎との接触となり、景虎との関係を深めていくことになったと思われる。
 勝長は、景虎親派として動くようになり、自身の家中軍団を率いて外征する景虎の越軍の一翼を担っていくことになる。
 出陣はなかったようであるが、弘治3年()葛山城落城にはっした第三回川中島合戦へ参陣を依頼する景虎の書状があり、それは、景虎が配下の軍団に出陣を命ずるのではなく、越後防衛の危機を説き参陣を懇願する内容であり、結果出陣はしなかった。ということに当時の景虎と色部氏の関係、色部氏の家格・独立性が伺われる。永禄4年の第四回川中島合戦には参陣し、政虎から「血染めの感状」を受けている。また、輝虎の関東出兵にも出陣し、特に永禄5年以降の下野佐野氏攻めに主要な役割を果たし、永禄10年10月まで下野佐野城に在番した。永禄9年は、上野厩橋城の北条高広が小田原北条氏に寝返り、越後ー沼田ー佐野の連絡が途絶える、越軍にとっては極めて危険な関東情勢のなかでの在番であった。輝虎は、赤城山東麓を巡る根利道に活路を見出し、佐野在番衆を救出した。
 永禄11年、同族で同じ揚北の国人本庄氏が輝虎に反乱を起こすと、色部氏は本庄に与することなく輝虎に従い対本庄戦に加わる。が、本庄を攻囲する陣中で、色部当主勝長は急死する。1月9日の本庄勢の襲撃に、討死したらしい。
 顕長が家督を継ぎ、本庄降伏の後の元亀二年八月、謙信は色部顕長の席次を本庄よりも上位に置き、揚北のみならず、越後国内諸将の上位に遇する。
 顕長の跡を継いだ長真は、御館の乱では景勝方につき、景勝政権を支える。天正16年(1588)、景勝上洛に従い、豊臣の姓を与えられ従五位下修理大夫に任じられる。長真の跡を継ぐ光長は直江兼続の娘を迎え、直江旦那を後見に、独立国人から景勝家臣に組み込まれていく。会津、米沢移封後も色部氏は上杉家重臣として続くことになる。
 
前置が長くなりましたが、では、素晴らしい館城遺構が眠る色部氏の居館、平林城へ
 
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現地説明版に拙ブログ説明用に加筆
その1ではピンク線内、三の丸を辿ります。
 三の丸には、いずれも内枡形を備えた、櫓門のような威容を誇る北門、水掘りで守りを南面の端に南門があります。二の丸との境には大土塁と鉤型の堀を巡らせています。
 
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三の丸北西隅
 地図http://yahoo.jp/P_Akhe
 
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北門
櫓門が建ちそうな威容
 
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北門内枡形
このような荘厳な門は、謙信時代の越後国人では考えられない。大坂城や伏見城の影響であろうか。
 
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三の丸西線と南西隅
 
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後世の通路用の切り通しかもしれませんが、土塁を衝立てるように切り通しているように思える。
 
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切り通しを抜けると、三の丸南面は水掘りが守っていたようだ。
南門は左に折れ開口している。
 
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三の丸南面水掘跡
この奥に灌漑用にも用いたと思われる水が、堤で仕切られた溜池に蓄えられている。
 
南門前面を振り返る
 
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南門前面
 
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南門
北門に比べ間口が狭い。
水掘りもあり、限られた者達の通用もしくは裏門的な用途か。
 
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しかし、門内はしっかりと大きな内桝形が構えられている。
 
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側面から
しっかり内桝形でしょ?
 
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三の丸内から、南面をみる
水掘りの雰囲気が濃く漂う。
 
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三郭郭内
溝がある

 かなり大きな区域(南北約90m、東西約225m)で、居館というより城内町といった雰囲気。色部家中の武士や、職人を住まわせた区域か。

 

 
奥、二の丸方面に進みます。
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三の丸奥(東)、大土塁が見えてくる。
 
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大土塁
三の丸側から
 
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大土塁の二の丸側は見事な堀
大土塁は岩館土塁というらしい
 三の丸側(右)が二の丸側に比し高いことから、大家氏は三の丸が旧根小屋で、館城を拡張していく過程で、現本丸・殿屋敷を居館として普請していったとしている。
 
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その堀は折れをともなう。
 水澤幸一さんは 越後戦国期城郭の中の春日山城で、色部氏が豊臣の姓をもらった天正16年以降に、家臣団を住まわせるために家臣団居住区を設定し、折れを伴う土塁の堀底を道を大手にみたて、来るものを圧倒するためにつくられた土塁としている。堀の南端ラインに、先述の水を溜め池をとしたであろう堤となる。
 
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堤の上(東)、今も水が溜まる
おそらく現在も用水として利用されているのでは。
春日山の愛宕谷奥など、灌漑用の溜池が居館脇にセットになっていることが多い。
 
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堤の下(西)、三の丸南面
 
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折れ付近
三の丸、堀底をみる。
大手であろうか?
 
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大土塁から二の丸側
水澤さんは大土塁・堀よりも奥(東)の二の丸を、色部家一門や有力家臣の居住区ではないか、としている。
 
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大土塁から色部当主居館、殿屋敷方向
 
その2では、弁天虎口?から、殿屋敷を辿ります。
 
参考文献 村上市史 神林村史 大家健著 図説中世の越後 
       水澤幸一講演 越後戦国期城郭の中の春日山城