その2では、主郭をもう少しと、黄線の北西のⅢ郭周辺、黄線の東のⅡ郭から東の郭を辿ります。
縄張り図は中田正光著 戦国武田の城から引用し、私見を書き込んであります。
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/47/df/j/o0433033614510037557.jpg?caw=800)
その1で辿った大手道筋を迎撃戦闘正面としましたが、黄線の北西も尾根が続いてるため、大濠切でぶった切り、段状に迎撃戦闘郭を設けてあるようです。また、この大濠切は、後の改修によってぶった切られものと思われます。二段の石垣は破却が酷くなく、わりとしっかりと残っています。Ⅱ郭から東の尾根の南北は急崖のため、迎撃戦闘は想定されていないものと思います。
![イメージ 18](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/b8/5f/j/o0314020914510037561.jpg?caw=800)
その1と同じ写真ですが、南からみた主郭
土塁というか土居が囲います。
対の北隅が櫓台の跡を思わせます。
![イメージ 23](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/66/cf/j/o0314020914510037566.jpg?caw=800)
主郭北西
![イメージ 24](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/8d/fe/j/o0314021014510037573.jpg?caw=800)
東隅
石が散乱します。ここにも櫓が建ちそうです。
櫓をのせる土壇があり、石垣で固めていたのでしょうか。
![イメージ 25](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/1d/46/j/o0314020914510037580.jpg?caw=800)
主郭からみる北東下の腰郭
北東下腰郭へおりてⅢ郭をまわります。
北東下腰郭におりました。
堀切は北東に降りる大濠切です。濠切の向こうがⅢ郭です。
高さが同じで、この腰郭とⅢ郭はもとは繋がっていた郭のようです。
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/15/63/j/o0314020914510037591.jpg?caw=800)
振り返って主郭を見る
角が櫓が建つ北隅
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/af/36/j/o0314020914510037595.jpg?caw=800)
Ⅲ郭
細長い
右が主郭北西の大濠切
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/ee/42/j/o0314020914510037603.jpg?caw=800)
大濠切
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/fc/e1/j/o0314020914510037610.jpg?caw=800)
Ⅲ郭南西は、二段の石垣がきれいに残ります。
その下に、大濠切で切られていますが、その1で辿った2線、1線が続きます。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/f8/ba/j/o0160012214510037618.jpg?caw=800)
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/8b/8b/j/o0314020914510037623.jpg?caw=800)
2線の続き
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/02/37/j/o0314020914510037629.jpg?caw=800)
線の続き
弓、鉄砲で待ち構えそう
主郭へもどり、東のⅡ郭、東の郭へ向かいます。
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/b9/23/j/o0314020914510037635.jpg?caw=800)
Ⅲ郭から大濠こしに見た主郭
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/06/e8/j/o0314020914510037641.jpg?caw=800)
Ⅲ郭から主郭へは、大濠切をこえて取り付く道が繋がっていますが、後世のものかもしれません。
が、石段と石垣があり、わざわざ後世つくるか?という気もしました。
大濠切が改修で掘られる前は、もとの大手道を迎える虎口は、こっちだったのでしょうか。
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/b6/3a/j/o0287014414510037648.jpg?caw=800)
主郭の東側
北(上)と南(下)は崖で、攻めのぼれるものではありません。
東の郭は先端で、善光寺平、川中島が良く見渡せます。
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/04/b4/j/o0314020914510037654.jpg?caw=800)
主郭からⅡ郭間南東堀切を見る
底はC
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/9b/41/j/o0314020914510037662.jpg?caw=800)
Ⅱ郭
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/9c/d8/j/o0314020914510037668.jpg?caw=800)
振り返って堀切こしに主郭を見る
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/6b/bf/j/o0314020914510037677.jpg?caw=800)
Ⅱ郭を東へ進むと堀切で尾根が切られています。
![イメージ 16](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/9b/1d/j/o0314020914510037682.jpg?caw=800)
うえの写真、いまいちよくわからないので、わたってからの写真をもう一枚。
![イメージ 17](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/b9/e6/j/o0314020914510037688.jpg?caw=800)
その先、尾根上に岩が残り、城戸を思わせます。
が、城戸、なくていいですね。
![イメージ 19](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/dc/18/j/o0314020914510037696.jpg?caw=800)
岩のあいだを抜けます。
![イメージ 20](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/7a/fe/j/o0314020914510037700.jpg?caw=800)
東の郭
![イメージ 21](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/39/64/j/o0314020914510037708.jpg?caw=800)
善光寺平
善光寺、県庁は木の下あたり
その1で県庁前から見た旭山城の山頂突端は、ここを見ているもの思います。
![イメージ 22](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/80/ba/j/o0448029914510037712.jpg?caw=800)
川中島方面
武田に与した善光寺別当栗田鶴寿は、後に武田勢として遠江高天神城に篭城し、戦死します。子の永寿が跡を継ぎ、武田滅亡後は上杉に寄ったが会津移封には同道せず長沼に西島と姓を変え帰農しました。島津氏の武田へ与した庶家と同様の処世を興味深く感じました。尚、長沼村史に、享禄元年(1528)島津安房守と栗田氏は激論を交わしたという記述があります。善光寺内で葛山衆と栗田氏とで対立があったようで、その後、葛山衆と島津氏は上杉に与し、栗田氏と島津庶家尾張守は武田に与し、拙ブログ葛山城、旭山城、戦国信濃島津氏で記載したような行く末となりました。
参考文献 中田正光著戦国武田の城 長沼村史