五覧田城(群馬県旧黒保根村) | えいきの修学旅行(令和編)

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現地解説版より
 「渡良瀬川と小黒川にかかえこまれた山地の南端要害山の山頂に立地。本丸(東西50メートル、幅16メートル)は標高592.9メートルの山頂にあり、これを中心に東・西・北の尾根筋に沿って合計14個の郭が並ぶ連郭式の山城。また南麓の関守には50メートルの崖上に方20メートルの単郭の遺構があり、ここの関所が設けられ、この関所を防備する城として五覧田城が築かれた。
 利根郡方面から赤城山東北麓を回って東上野に抜ける黒川谷ルートの要地に位置する山城である。
 小田原北条氏は、この城に阿久沢氏らのこの地方の土豪を設置した。天正2年(15743月に、上杉謙信はこの城を攻略し、同年9月には北条方の由良国繁が「五覧田根小屋」を攻め落し、立て篭もっていた沼田衆300人を討ち取っている。
 天正12年(1584由良氏が北条氏から離反すると、北条氏は7月に阿久沢・前原・目黒氏など在地の土豪に命じて五覧田城を攻め落とさせている。」
 
 青字について 根利道ご覧ください。現在の県道62号は五覧田城と深沢城の間に出ますが、旧道は分岐し深沢城へでる道と、小黒川沿いに五覧田城下関守口にでる道があったようです。
 赤字について 天正2年3月13日 上杉謙信書状に
其上、当地深沢押寄、打懸ニ取詰候処、阿久沢弟兄候者押出、令忠信候、乍去、模様無心元子細候間、当手之者為押入要害、是も越衆ニ申付候、同ごらん田之地彼飛脚如見聞、今日押落無所経地ニ候間、相捨候
 とあります。相捨候とあるので攻略後は深沢城のみに兵をいれ、捨てたのでしょうか。
 茶字について 天正12年7月11日 北条氏直の目黒織部丞に宛てた感状です。
 去る三日、五覧田之地乗取の砌、敵一人前原藤左衛門と合討、高名の至神妙に候、いよいよ走廻すべきもの也
 
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戸屋沢橋登山口の駐車場から。
ここから10分ほどで東の郭にでます。
 
 122号線に五覧田城跡の看板があり、曲がると登山口の分岐にあたります。分岐を右に、戸屋沢橋口をめざし林道を進むと駐車場があります。分岐を左に進むと関守口。
 やまはここhttp://yj.pn/Qjlr4G
 登り口は確認のうえ地図アップしたいと思います。 
 

 

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現地にあった城跡図。

右下の東の郭から主郭、西の郭群へ辿りました。北の尾根は進めませんでした。
主郭東下の、連続する虎口やコの字状にまわる土塁は草で覆われ、写真がとれませんでした。
主郭西側の尾根を遮断する堀切ふたつは明瞭で堪能できました。

 

  

 

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東の尾根の城域に入るあたりに土橋があります。

 
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東の郭への登り
 
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東の郭
渡良瀬渓谷の北東方面の眺望がすばらしいです。
祠、解説版があります。
 
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渡良瀬渓谷北東方面
 
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東の郭から尾根を主郭方向へ進みます。
 
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主郭東二段下への堀切
コの字状の土塁で囲われている
 
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コの字状の土塁は藪で写真にうつりません。
 
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主郭東一段下の郭
虎口の形状は藪で写真にうつりません。
 
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主郭への入口
 
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主郭
さみしい
せめて東の郭のようにしたらいいと思います。
 
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主郭西尾根は遮断の構造で、崖のように西の郭へ降ります。
 
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降りると堀切で土橋がつくられています。
 
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振り返って、土橋越しに主郭を見上げる
 
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そのさきにもう一重堀切があります。
 
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けっこう深く、見応えがあります。
 
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西の端は土塁で留まります。
 
参考文献 関東の名城を歩く北関東編 斎藤慎一著中世を道から読む 黒保根村史