![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/94/51/j/o0314023514510035228.jpg?caw=800)
竹俣館から東へ1km進むと竹俣東城の木戸遺構があります。
雰囲気十分に残っていると、うれしい気分になりますね。
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/8c/ca/j/o0314023514510035231.jpg?caw=800)
木戸から120mほど先に大平川が二筋に分かれる地点があり、土橋で東城郭内に繋がります。
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/f7/69/j/o0314023514510035234.jpg?caw=800)
郭内
水害と耕地整理のため、郭内の遺構は二郭の的場と伝わる土塁以外はわかりません。
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/6c/ae/j/o0314023514510035239.jpg?caw=800)
二の丸標柱
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/d0/56/j/o0314023514510035243.jpg?caw=800)
二の丸標柱から東、本郭方向。
本郭跡に竹俣東城の碑がたちます。
近隣の中条氏の東館https://ameblo.jp/mei881246/entry-12496881498.html
にも的場と伝わる遺構が残り、的場という言葉が500年後にも伝わるところに、鎌倉御家人以来の武門の威光を感じます。
にわかに的場フェチになりました。
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/56/50/j/o0314023514510035245.jpg?caw=800)
本郭に竹俣氏東城本丸跡の碑がたちます。
東城から東はニ王寺岳まで三光川の谷となります。
谷を挟む両尾根に竹俣氏の要害、竹俣要害と竹俣新城があります。
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/fb/b7/j/o0314023514510035250.jpg?caw=800)
谷の奥、二王寺スキー場からみた竹俣領方向
左の尾根に竹俣新城、右の尾根に竹俣要害が築かれています。
大家健 図説中世の越後では「大手路を攻め登って来ても、迷路と行き止まりによって容易に次の郭に取り付けない構造、三箇所の下の郭から上の郭への登り口もぐるりと180度迂回し、それも一騎かけの狭い幅であったり、縦堀で切断されていたり等、中世山城の防御施設が濃縮されて展示されているようである」 と記されています。
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/02/a4/j/o0299012514510035254.jpg?caw=800)
竹俣要害縄張り図
大家健著 図説中世の越後から引用し、写真を撮れた箇所を書き込んであります。
このように記されていてこの縄張り図を見れば、行かずにはいられません!ですが、時期が悪く(7月)、私の心を打ち砕くほどの藪のため、主郭には取り付くことができませんでした。
![イメージ 16](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/d7/37/j/o0314023514510035261.jpg?caw=800)
登城路
要害西端の郭に送電鉄塔があり、そこまでは作業路(当時の登城路と思われる)がついているので普通の登山様に行くことができます。
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/bf/42/j/o0314023514510035266.jpg?caw=800)
途中の折れ
木が木戸のように見えます。
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/b3/93/j/o0314023514510035270.jpg?caw=800)
送電鉄塔が見え、暑さで焦燥していた私の胸が期待に膨らみました。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/85/0f/j/o0314023514510035273.jpg?caw=800)
送電鉄塔のある郭
写真右端の山は佐々木加地氏の加地城
送電鉄塔のある郭から見る竹俣新城(2020訂正)
谷を挟んで南の山の尾根に、相呼応するように竹俣新城が築かれています。
要害主郭を目指して藪に突入しますが、あまりの藪で遺構の写真は藪しか写りません。かろうじて郭と郭の間をぐるっとまわりこむように誘導する堀切状の通路一か所と井戸跡の写真を紹介します。
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/57/d1/j/o0314023514510035280.jpg?caw=800)
まわりこんで郭と郭の間を通す、堀切状の誘導通路
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/d4/3d/j/o0314023514510035285.jpg?caw=800)
井戸跡
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190722/22/mei881246/4b/bb/j/o0314023514510035292.jpg?caw=800)
私が踏破を断念した地点から見る主郭方向。手前30mほどだと思います。
竹俣要害の藪は、私の心を遮るほどでした。
時期を改め、事前に縄張りをしっかり予習し、コンパス、水分、クマ除け対策をして登れば、「中世山城の防御施設が濃縮されて展示されているようである」というところを堪能できると思います。
竹俣館ー東城は1.1km、東城ー要害は1.3km(いずれも直線距離)離れています。
竹俣館が手狭になり、より広い東城に移ったという用途と、謙信死後の御館の乱、新発田重家の乱の越後の騒乱による不安定要因から、要害のより近くに寄ったという心理もあったのではないかと感じました。
竹俣館周辺は、私は竹俣氏代々の繁栄と武勇を感じました。
参考文献 大家健著 図説中世の越後