竹俣氏 その1竹俣館 | えいきの修学旅行(令和編)

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 竹俣氏は、 佐々木加地氏から別れた揚北の国人領主です。中学生の頃の遠い記憶に、戦国時代の当主竹俣三河守慶綱の「川中島合戦で乗馬を失いながら奮戦、政虎に馬を与えられた」という逸話が印象深くあるのですが、今手元にある本にはその逸話はみあたりません。私の勘違いかもしれませんが、勇将として私の脳裏にある武将です。
 天正三年軍役帳には鑓67、手明10、鉄砲5、大小旗6、馬上10、計98人の軍役を担っています。
 織田の侵攻に対し越中の最前線へ派遣され、天正10年6月魚津城落城の際し、自刃した。
 長尾景人が跡を継ぎ、景勝の会津移封に従った。
 
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北西から見た竹俣館。
東(左)から主郭、二郭、三郭とならぶ。
主郭北虎口の前には馬だし機能の郭が残ります。
場所はここhttp://yj.pn/M0xPKtです。
 
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竹俣館縄張り図
大家健著 図説中世の越後より引用し書き込んであります。
黄丸内は遺構が良く残っています。
本郭南にも馬だし機能をもった郭があったようですが遺構はわかりません。
 
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北面
 
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南面
三郭南西角に三の丸の標柱があります。
奥が二郭、主郭になります。
 
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二郭標柱
奥が主郭。
水田は堀の遺構を利用したものかもしれません。
他は畑で二郭と主郭の間がL型に水田になっています。
 
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主郭から見る二郭
 
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主郭南西郭に竹俣氏館跡の標柱がたちます。
 
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主郭には用水が流れます。
郭を区切った線かもしれません。
写真奥(東)に二重堀切が残ります。
 
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主郭東面 二重堀切
わかります?よーくご覧ください。
外の堀切
 土塁
内の堀切
 
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主郭北虎口
堀切の向こうに馬だしとして機能したと思われる郭があります。
 
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主郭北の馬だし郭
両脇(写真の奥(西)と手前(東)に)入り口があります。
 
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東から馬だしへの入り口
 
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西から馬だしへの入り口
石遺構があり、勢いよく水が流れています。
 
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石のアップ。
石垣ではないようですが、竹俣氏の威厳を感じました。
 
 
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ちかくに竹俣氏の菩提寺寳積寺があります。
お墓はわかりませんでした。
長尾景人が継いだ竹俣氏は会津ー米沢と上杉氏に従ったのでお墓も移ったことと思います。
 
寳積寺から見た竹俣氏の竹俣要害と竹俣新城方向
 竹俣館と竹俣要害の間に竹俣東城という後期の館跡があります。
あまりいい写真は撮れませんでしたが、その2で東城と竹俣要害を紹介します。
 
2020作成 竹俣城前編  https://ameblo.jp/mei881246/entry-12587459678.html

            後編 https://ameblo.jp/mei881246/entry-12588178068.html

 

 
参考文献 大家健(1998)『図説中世の越後』、野島出版