一九六一年(昭和三十六年)、つまり還暦の年、ボクの目はかすんできた。江戸の火事の落語によく横山町という町の名がでてくる。今でも問屋の町だ。そこの親戚の、眼鏡問屋がある。ボクはそこへいって相談した。近視か乱視かがひどくなったんだから眼鏡をかえたらよいだろうとおもったからだ。
むかしのことだから、その店に目医者なんてものはいない。しかし、もちはもち屋だ。白内障だろうから眼鏡をかえてもだめだといって近所の目医者を紹介してくれた。おやじは緑内障でボクは白内障か、とみょうに関心した。
誤診とおもったわけじゃないけれど、甥のいる東大の眼科へ相談にいった。甥は主任教授をつれてきた。教授はあっさりと、白内障だ、二〜三年で見えなくなるから、そのときくるようにと気の毒そうにいった。
ボクの対応はこうだ。見えなくなるのを待つんじゃなく、自分でなんとかしようってことだ。
ボクは大それたことをかんがえはしないが、世のなかには医者をぜんぜん信用しない人がいる。
ボクはそんな強気じゃない。見えなくなるのを待つ気がないだけのことだ。
ここにある問題は、目のタチがわるいとはどんなことかってことだ。それを近所の親しいK医師にきいてみた。すると、血管網の特性じゃないかというんだな。
テレビの画面でみたことがあるけれど、血管網ってやつはすごいジャングルだ。これが設計図あってのものだとはどうしてもおもえない。設計図を親からもらったら、ぴったりおんなじジャングルができるものかどうか、疑問はつきないんだな。親ゆずりとはいえ、クラスメイトのだれもが白内障をやっていない。この問題は血管網のちがいで説明できるものなんだろうか。
血管網のちがいはいったい何だ。血のめぐりがいいかわるいかの問題なのか。毛細血管分布の密度、毛細血管の太さの問題なのか。
こんなややこしい話はごめんだというお方は、健康について考えないほうがぶじだ。
本原稿は、1994年1月14日に産経新聞に連載された、三石巌が書き下ろした文章です。