韓流時代小説 秘苑の蝶 第二部
「恋慕~月に咲く花~」
「秘苑の蝶」第二部スタート。
奇跡の出会いー13歳の世子が満開の金木犀の下で出逢った不思議な少女、その正体は?
第二部では、コンと雪鈴の子どもたちの時代を描く。
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どこかで国王の息子であり、世子であるという事実に甘えていた自分がいる。
昌が物凄い勢いで首を振る。
「そんなことはありません。私は、邸下があの者の言うように本当に自らの立場に物言わせる方だとは思いません。邸下、あのような慮外な痴れ者の言葉になど、耳を傾けないで下さい。この国には、何でも真摯に取り組まれる邸下をお慕いする民たちが大勢いるのです。邸下の英明さは、宮殿の外にいる私たちもちゃんと知っています」
刹那、賛の耳奥で聞き慣れた声がこだました。
ー私は邸下だからこそ、こうして誠心誠意お仕えさせて頂いているのです。この国の王にならるる方は、あなたさまを置いては他にいないと思っておりますよ。
賛は素直に頷いた。
「そうだな」
賛の周囲には、ウンシクのような者ばかりではない。例えばホン内官のように、至らない自分に忠誠を誓ってくれている者もいるのだ。昌のひと言が賛の冷えた心を包み込み、癒やしてくれる。暖かな優しい感情が打ち寄せる波のようにひたひたと心を潤すのをこの瞬間、はっきりと感じた。
「ありがとう。そなたの言葉は、ずっと心に刻みたいほど尊いものだ。心から礼を言うよ」
賛がはにかみを見せて言った。
「私も言おうかどうか迷ったのだが、そのー、迷惑でなければ、また来ても良いかな?」
この問いは昌を困らせてしまったようである。
「邸下、申し上げにくいのですが、私は妓生ではありませんから」
とんでもない誤解をさせてしまった。彼はおおいに狼狽えた。
「違う、誤解しないでくれ。私はそんなつもりで申したのではない。昌とーそなたにまた逢いたいとただそれだけで言ったんだ」
と、昌は頬を染めながら意外なことを言った。
「私も許されるなら、邸下にまたお逢いしたいです」
思案げに眼を伏せ、少しく後、昌は眼を輝かせた。
「畏れながら、邸下は私の従兄でもいらせられます。女将さんには、兄が面会に来るとでもお話しすれば、お許しを頂けるかと」
さも名案を思いついたとでも言いたげに意気揚々とした昌を目の当たりにして、言い返せなかった。
どう見ても、賛と昌は似ていない。世の中には確かに似ていない兄妹は存在するだろうが、賛は自分でも昌への恋慕が隠しおおせているか自信がないのだ。それほどに、彼に魅せられていた。否、今日、彼と二人きりで長い時間を過ごし、いっそう恋慕の想いは深まった。これ以上、彼を好きになってしまったら、どうすれば良いのだろう。
あの切れ者の女将がその辺りを見抜けないはずかない。遊廓の女将といえば、酸いも辛いも知り尽くした海千山千の女傑に相違ない。賛や昌のような苦労知らずの若造が束になっても叶わないほどに、大勢の客、女、そして客と妓生の恋模様を見てきて、人の機微に通じている。
もっとも、地獄の沙汰もなんとやらという。女将は金を握らせば、よほどのことが無い限り、見て見ぬふりをするだろう。そのためには断じて女将に自分が世子であるという事実を知られてはならない。
昌は妓生ではないため、表までは見送れないと言われ、賛は一人で階下まで降りた。妓生たちは泊まり客と一夜を過ごした翌朝、色町が途切れる辺りまでは送ってゆくことが多い。共に一夜の夢を結んだ男を見送り、また男にあいまみえるのを祈るのだ。そうやって契りの後の後朝(きぬぎぬ)の別れを経験する女が苦界には数え切れないほどいる。
夢と知りながら、夢を現と取り違え、生命を失うような烈しい恋に走ってしまう女も。そんな女郎のゆく末は無残なものだ。男には大抵、家で待つ妻や子、家族がいる。客にとって廓で過ごすのは、ほんの一刻、男はいずれ妻子の許へ帰る。
来ない男を待ち続け、待ち疲れて自ら入水して儚くなった女郎もいた。
ー廓では男に惚れさせても、女郎は惚れるな。
代々、言い伝えられるのは、そのような背景があった。
松月楼を出た賛は、まだ後ろ髪を引かれる想いで夜空を見上げた。そっと背後を振り返った先に、軒先に見た目も艶やかな無数の提灯を下げた店先が見える。
今宵もここで、幾つもの偽物の恋の華がひらくのだろう。
ー昌、愛している。
今日、はっきりと悟った。昌への想いは単なる恋心よりも、もっと深いものであると。
だが、私の恋慕がそなたを苦しめる枷となるなら、私は生涯、想いを伝えるつもりはない。
何故なら、願うのは君の幸せだけだから。
賛は自分の気持ちをねじ伏せ、無理に松月楼に背を向けた。彼の背後で、客にしなだれかかる妓生の嬌声が聞こえ、彼はいっそ足を速めた。
不夜城はこれからの時間、更に賑わいを見せ、光り輝く。それが一夜の儚い幻であるとも知らずに。