第四話 韓流時代小説 夢の途中【秘苑の蝶】 後編
~王と世子(コン)の間で揺れる雪鈴の心。そんな中、承恩尚宮ソン氏の懐妊が発覚し~
国王陽祖に召し上げられた雪鈴は、後宮入りし、承恩尚宮となった。21歳も若い娘のような雪鈴を熱愛する陽祖。
一方、文陽君ことコンは愛する想い人を突然、王に奪われ、嫉妬で鬱々とした日々を送る。そんな中、世子冊封の儀式が行われ、コンはついに正式な東宮となった。
コンはまだ雪鈴が一方的に別離を告げたのは、自分の前途を思い身をひいたのだと考え、何とか雪鈴の本心を確かめたいと思っている。しかし、「王の女」である雪鈴と世子であるコンが二人きりになれる機会など、あるはずもなかった。
だが、秘苑と呼ばれる王宮庭園の奥深く、二人は運命的かつ皮肉な再会を果たす。
更に、導きの蝶である銀蝶が雪鈴を導いたのは王妃の居所とされる中宮殿だった。
ー今でさえ正式な側室でもないのに、私が王妃になるなんてあり得ない。
やはり、銀蝶が未来を告げるというのは自分の思い違いにすぎないと苦笑する雪鈴だったが。
嵐の王宮編、怒濤の展開、後編。
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賢明は三人の兄たちの中では、際立って頭が良かった。地方の私立学堂では常に最優秀で、神童との呼び声も高かった。期待を一身に集めて都に上り、科挙を初受験したのは、まだ十歳のときの話だ。その噂は遠く都まで聞こえることとなり、十一歳の時、時の礼曹判書がわざわざ漢陽から南の田舎町まで兄に逢いにきたほどだ。
礼曹判書は利発な上に人懐っこい兄を気に入り、すぐに長女の婿に欲しいと父に申し込んだ。父はまたとない良縁をありがたく受け容れ、兄は翌年、十二歳で実家を離れ漢陽に上った。相手の令嬢は当時、十八歳と兄より六歳も年上であったが、その年には婚礼が行われ、兄は翌年、十三歳で再挑戦した科挙では二等で合格した。
確か今、兄は十九歳のはずで、六歳上の夫人との間には二歳の息子と当歳の娘を儲けているはずだ。
早々と跡継ぎの孫にも恵まれ、兄を婿に迎えた左議政(当時は礼曹判書)は婿を見る我が眼は狂っていなかったと方々に自慢しているとかいないとか。
十二歳で実家を出た次兄とはもう何年も逢っていない。だが、秀麗な眼許は、記憶にある幼い頃のものと変わらない。三人の兄たちの中、この次兄が実は雪鈴と一番親しかった。他の二人の兄は粗暴すぎるが、賢明は左議政から婿に見込まれるだけあり、雪鈴にも優しく理解を唯一示してくれた存在だった。
賢明が感に堪えたように言った。
「俺はてっきりお前がー」
一旦、言葉を途切れさせたのは、この兄らしかった。幼い頃から気遣いのできる人だった。
雪鈴はほのかに微笑し、続きを引き取った。
「とっくにあの世生きになったと思ってたんでしょ」
兄は苦笑いしている。
「相変わらず、ずけずけと言いたいことを言う」
尚宮がおろおろしながら言った。
「尚宮さま、あまり若い殿方とのご歓談が人目については」
国王の耳に入ってはまずいとい言いたいのだろう。雪鈴は低声で囁いた、
「この人は実の兄よ、心配は要らないわ」
尚宮の丸い顔には隠しようもない衝撃が現れている。
「この方は左相大監さまの義理のご子息ではありませんか」
何故、堂々と名乗れもしないような零落した両班の娘が朝廷で重きをなす権力者左議政の娘婿と実の兄妹なのかー。
普通に考えれば、相当に複雑な事情があると判るけれど、この馬尚宮の良いところは余計な詮索は一切しないというところだ。もしかしたら、雪鈴のためというよりは、〝危うきには近寄らず〟の保身のためなのかもしれないが。
いずれにしても、馬尚宮に限り、今日の兄との邂逅が外に洩れ出る心配はなさそうだ。
それでも、用心に越したことはない。雪鈴は尚宮には話が聞こえない場所まで兄を導いた。
兄がふと言った。
「父上と母上にお前の無事を知らせてー」
雪鈴は強い語調で言った。
「止めて」
自分でも予期せぬほど烈しい勢いで遮ったことに、自分自身が打撃を受けていた。
あまりの剣幕に、兄がたじろいだように見えた。
雪鈴は自らを落ち着かせるかのように小さな息を吐いた。
「お父さまとお母さまは私が生きているのを知っているわ」
兄は二度愕いたようである。
「何だと?」
雪鈴はうつむいた。
「お兄さまは、私が〝亡くなった〟ことになっている事情はご存じ?」
そこで兄はハッとした様子になり、雪鈴を痛ましげに見つめた。
「それはー知っている。生憎と俺は都住まいだから、遠方のセサリ町までは行けなかったが」
当人を前にはばかられるゆえ、敢えて〝弔い〟とは口にしなかったのだろう。兄はまた口を開こうとして、押し黙った。察しの良い兄が大方の事情を想像し、頭でまとめているのは丸判りだ。
祝言を挙げて五日目の新妻が良人に殉死して、烈女として表彰されたー。事実はその通りではあるのだが、現実として死んだはずのその妻が生きているとしたら。
到底外聞をはばかる裏事情が存在するとは、兄ではなくとも少し頭の切れる者ならば容易に察しがつくというものだ。
兄がフワリと笑った。
「いずれにしても、お前が無事であると判った。俺にとって重要なのは、その事実だけだ。何がどうなっているかなんぞ、どうでも良い。ー今更、ほじくり返したって、ろくなことはなさそうだしな」
兄が余裕の笑いを浮かべて言う。この兄は昔からそうだった。一見繊細そうに見えて、実は度量の広いというか、何でも丸ごと受け止められる器の大きさを持っている。左議政がまだ幼い兄の才覚を正しく見抜き、後継者に選んだのは確かに正しかったのだ。
雪鈴を見る兄の眼は昔と変わらず、穏やかで優しい。
「だが、お前が何故、ここにいるのかについては是非、知りたいものだな。あそこにいる尚宮はお前のことを〝尚宮さま〟と呼んでいたような気がするが」
雪鈴はまたうつむき、顔を上げて兄を見つめた。
「話せば長くなるわ。私は一度、死んだことになっていて、今は別人として生きているの。さる人に助けられて、長らく、その方の許でお世話になっていたのだけれど」
溜息をつき、続けた。
「たまたま、恩人の許を国王殿下が訪れられ、私は特別尚宮として王宮に入ることになったというわけ」