第三話 韓流時代小説 夢の途中【秘苑の蝶】 前編
～イ・コンこと文陽君が世子に冊立される？～
地方の田舎町で両想いの恋人として、幸せな時間を過ごしていたコンと雪鈴（ソリョン）。だが、幸せは長く続かず、国王からの王命で、コンは急きょ、都に呼び戻されることになった。雪鈴も彼と共に生まれて初めて漢陽へ赴く。
国王から王宮に呼ばれたコンは、そこで世子に指名されたのであった。
そして、雪鈴はコンに起きた身の激変について知らぬまま、ついに二人して出掛けた海辺の小屋で初めて結ばれる。
しかし、嵐の一夜を二人きりで過ごし邸に戻った若い二人を過酷な運命が待ち受けていた。
コンを訪ねてきた国王が雪鈴を見初めたのだ！
王はコンから強引に雪鈴を奪おうとしてー。
嵐の王宮編、怒濤の展開、前編。
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〝客分〟という言葉は、まったく信用されていないらしい。一瞬、王の眼が雪鈴の胸を飾るピンクサファイアのノリゲを射るように見た。
コンがどこか不機嫌な声で言った。
「彼女は、そのような意味でこの屋敷にいるのではありません。誤解なさいませんように」
王が面白がるように言う。
「では、朕がこの者を所望したとしても何の文句もないわけだ」
コンの顔が蒼褪め、はっきりと強ばった。
「ご冗談もほどほどになさって頂けませんか」
更に、ここで機先を制する必要があると痛感した彼は口を開いた。
「この者が生涯を共に歩むと決めた女です」
まさに、堂々と王の前で宣言したのだ。
王は眉一つ動かさず、平然と言い放った。
「そなたはいずれ王位を継ぐ身だ。そなたが十代の砌から漠然と王位を譲るなら、そなたにと考えていた」
「畏れ多いことです」
何の感慨もこもらない声だ。
「何故であろうか、そなたは朕と似ているところが多い。にも拘わらず、朕とは真逆の部分も併せ持っている。朕はそなたのような強さを持っていない。だからこそ、政には無関心、後宮で女の尻ばかり追いかけ回している愚鈍な王と誹られるのだ。朝鮮には賢く強き王が必要だと朕もその程度は判るし、国のゆく末を憂えている。恐らく、それがそなたを世継ぎにと考えた最大の原因だろう」
今、初めて王から聞く世継ぎに選ばれた理由だった。
「ゆえに歳はさほど変わらぬが、朕はそなたを実の息子のように思っている、文陽君。領議政の孫娘との縁組みは、父が息子のためを思って進めたものだ。こんなことを言いたくはないが、そなたの実父は力も無い一介の王族だ。世子となるそなたには、今後、強力な後ろ盾が必要だろう」
つまり、領議政がその後ろ盾となるということだ。
今度こそ、王は確たる声で言った。
「朕は、そなたの正室の実家が強力な後ろ盾となるのを期待している。我が世子の妻、世子嬪になるのは領議政の孫娘をおいては考えられぬ」
今一度、王は雪鈴の胸で揺れるピンクサファイアのノリゲを凝視(みつ)めた。
「王族としてこの世に生を受けたからには、最低限果たさねばならない務めがある。それが、王統を受け継ぐ血筋を残すということだ。王族男子が生誕時に与えられる玉牌には、与えられた責務を忘れるなという戒めも込められているのだ。朕にはいかにしても叶わなかった望みを文陽君、そなたが叶えて欲しい。領議政の孫を娶り、一日も早く世継ぎの顔を見せてくれ」
短い沈黙の後、王が厳かにも聞こえる口調で言った。
「朕の言葉の意味が判るか？ 聡明なそなたなら理解してくれるものだと信じているが」
次の瞬間、耳を疑う科白が発せられた。
「ーこの娘を朕にくれ」
「ーっ」
コンが膝に置いた両の拳を握りしめた。掬い上げるように王を見つめた双眸には、怒りのほむらが燃えていた。
「お帰り下さい。そんな戯れ言を仰せのために、わざわざお越しになったわけではないでしょう」
王がフと笑った。余裕を感じさせる笑みだ。
「むろん、そなたがこんな美女を隠していたとはついぞ知らなんだゆえの。さりながら、領議政の孫との縁組みを薦めるためというのは真だぞ」
立ち上がり際、王は雪鈴の淹れた茶を一気に飲み干した。
笑顔で雪鈴に言う。
「美味い茶であった。じっくりと淹れた茶には出した者の心が表れる。そなたは眉目だけでなく心映えも優れた娘なのであろう。今後は後宮で朕のために是非、美味い茶を淹れてくれ。王宮で待っているぞ」
コンが地の底から湧き出るような声で言った。
「あなたに雪鈴は渡さないー何があったとしても」
王が扉に手を掛け、つと振り向く。首だけねじ曲げた体勢でコンを見た。
「これは王命だ」
コンが激怒して怒鳴った。国王に対する礼儀など、どうでも良い。
「帰れ！」
「コンさま」
雪鈴が顔色を変えて縋るように彼を見るのが判ったけれど、もう我慢の限界だ。
激高する彼とは裏腹に、王は静かに扉を閉めて去っていった。
足音が遠ざかってゆく。我に返った雪鈴はコンを背後からそっと抱きしめた。コンの逞しい身体は怒りのあまり、小刻みに震えていた。
「コンさま、国王殿下にご無礼がすぎます」
宥めるように言うのに、コンが低い声で呟いた。
「あの王は大変な女好きだ。美しいそなたを王の前に出すのではなかった」
次いで彼に壊れるかと思えるほど強く抱きしめられる。
「どこにも行くな。俺を置いてなんて行かせない」
雪鈴もまた細い腕を回し、彼を抱きしめ返した。
「私はどこにもゆきません。ずっとコンさまのお側にいます」
けれどー。雪鈴はもう気づいてしまった。自分という存在がコンにとっては本来なら招くはずのない試練をもたらすものだと。
雪鈴がいることで、コンは継母と仲違いをしてしまった。
この屋敷を訪れた王がたまたま雪鈴を見初めて、後宮に召し上げたいと言い出した。コンは龍の化身とされる国王に真っ向から刃向かおうとしている。コンが幾ら王のお気に入りであり、なおかつ世子になる身だとしても、度が過ぎれば不敬罪、大逆罪に問われかねない。
どちらもコンが雪鈴と出逢っていなければ、あり得なかった事態だ。
ー私はコンさまに幸福どころか不幸をもたらす人間なのね。
哀しいけれど、どうやら真実のようだ。だとすれば、我が身が取る道は一つしかない。
雪鈴が心から望むのは、いつだって愛する男の幸福だけだから。
もしかしたら、今日ここで王と出逢い後宮へと望まれたのも、天意なのかもしれない。このままコンの側にとどまり、彼の前途の妨げとならないようにと御仏が雪鈴に新たな道を指し示し給うたともいえる。
この瞬間、雪鈴はコンの側を去る哀しい決意をひそかに固めたのだった。
夢はいつかは覚めるもの。やはり、幸せは長続きはしなかった。コンに抱かれた雪鈴の眼から澄んだ雫が糸を引いて落ちた。 （前編・了）
紫陽花（蒼、紫など）
花言葉ーうつろう心、心変わり、辛抱強い愛情、冷淡、無情、高嶺の花、神秘的、移り気、浮気、無常、知的。