第三話 韓流時代小説 夢の途中【秘苑の蝶】 前編
~イ・コンこと文陽君が世子に冊立される?~
地方の田舎町で両想いの恋人として、幸せな時間を過ごしていたコンと雪鈴(ソリョン)。だが、幸せは長く続かず、国王からの王命で、コンは急きょ、都に呼び戻されることになった。雪鈴も彼と共に生まれて初めて漢陽へ赴く。
国王から王宮に呼ばれたコンは、そこで世子に指名されたのであった。
そして、雪鈴はコンに起きた身の激変について知らぬまま、ついに二人して出掛けた海辺の小屋で初めて結ばれる。
しかし、嵐の一夜を二人きりで過ごし邸に戻った若い二人を過酷な運命が待ち受けていた。
コンを訪ねてきた国王が雪鈴を見初めたのだ!
王はコンから強引に雪鈴を奪おうとしてー。
嵐の王宮編、怒濤の展開、前編。
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コンがまた瞳を煌めかせた。
「桜貝は、人魚が零した涙だという言い伝えもある」
雪鈴も人魚の伝説であれば知っている。上半身が人で下半身が魚という、架空上の生きものだ。先刻、コンが語った昔物語にも登場した主人公でもある。
「人魚の涙は真珠ではありませんでしたっけ」
雪鈴が知る昔物語では、人魚姫が流す涙は真珠になるといわれていた。
コンが愉快そうに笑った。
「まあ、色々と言い伝えがあるということだな」
雪鈴も頷いた。
「桜貝にしろ、真珠にしろ、美しいものですね。美しい人魚姫が流す澄んだ透明な雫ですから、どちらになったとしても納得はできるような気がします」
コンも納得顔だ。
「だな」
雪鈴は更に幾つか桜貝を拾い集め、波打ち際のきわまで進み、惜しげも無く、それらを海に放った。
コンが不思議そうに言う。
「折角、拾ったのに」
雪鈴は微笑で応えた。
「人魚姫の涙は、やはり海に還してあげるべきかなと思いまして」
報われぬ恋に散った悲劇の姫君の魂は、最後には優しい姉たちの待つ海の王国ーふるさとに戻ったのだと信じたい。
コンは何も言わず頷いた。
「そうか」
自らの想いを貫き、泡となって散った人魚姫。我が身は彼(か)の姫のように潔く愛する男への想いに殉ずることができるだろうか。
かつて崔家の義両親に強制された殉死ではなく、自らが考え選び取る誇り高い別れに他ならない。
そこまで考え、雪鈴は慌てて掠めた禍々しい考えを打ち消した。コンも雪鈴も同じ想いでいるというのに、何故、そんな埒もない不安をわざわざ抱く必要があるのか?
ここでもまた雪鈴は重くなった心を持て余し、わざとはしゃいだ声を上げた。
「コンさま、少しだけ、はしたないことをしますけど、許して下さいね?」
呆気に取られているコンの前で、絹の刺繍靴、足袋(ポソン)を脱ぐと砂浜に置いた。白い素足に彼が眼を細める中、雪鈴は裸足で砂浜を一歩一歩、感触を確かめるように歩き、おっかなびっくり、水辺へと進む。
用心しながら片足を踏み出し、そうっと打ち寄せる波に浸した。刹那、心地良い冷たさがひんやりと足を包む。
「とても気持ち良いです」
そのまま数歩進めば、直に海水は雪鈴の脹ら脛辺りまでに達した。振り返り満面の笑みでコンに手を振る。
コンもまた笑って手を振り返してきた。
「よし」
彼も誘われたように靴と足袋を脱ぎ、真っ直ぐ雪鈴に向かって歩いてくる。
「確かに、水の冷たさが気持ち良いな」
コンも眼を閉じて海水に足を浸している。
近づいてきたコンに向かい、雪鈴は両手で海の水を掬ってかけた。
コンはまさかの反撃に遭い、固まっている。かと思うと、彼も負けてはいない。すぐに同じように片手で水を掬って雪鈴を攻撃してくる。
二人は水の掛け合い合戦を繰り広げ、それはしばらく続いた。水しぶきが夏の陽差しに煌めく。二人が上げる飛沫が絶え間なく散り、雪鈴は悲鳴を上げて逃げ回り、コンが楽しげに笑って追いかける。
二人とも子ども時代に戻ったかのように、無心になり、はしゃいだ。
コンが笑いながら雪鈴に手を伸ばした。
「捕まえたぞ」
手首を掴まれ、強く引かれた拍子に勢い余って雪鈴の華奢な身体が傾いた。
「危ないっ」
コンが咄嗟に両手を差し伸べようとしたけれど、寸でのところで遅れを取った。雪鈴を片手で受け止めたまでは良かったものの、二人は均衡を崩して、そのまま海中へと倒れ込む。
幸か不幸か、倒れたのは浅瀬で良かった。沖合であれば、冗談でなく二人一緒に仲良く溺れていた危険もある。
倒れ込んだ二人を波がひっきりなしに洗ってゆく。当然、雪鈴もコンも全身ずぶ濡れになってしまった。
今、倒れた雪鈴の上にコンが覆い被さった体勢だ。コンは逞しい両手で雪鈴を囲っていた。互いの息遣いさえ聞こえてくるほど近くに彼がいる。
コンの黒瞳がじいっと彼女を射貫くように見つめた。荒々しく唇を塞がれる。今日の彼は、いつものような穏やかさを纏っていない。性急に舌を差し込まれ、舌と舌を絡め合う淫らな口づけを仕掛けられた。
どれだけ口づけていたのか。ようやっと長い口づけを解いた時、彼の瞳は昏く翳っていた。
「生まれたままの姿の雪鈴を描きたい」
最初は彼の言おうとしている意味が判らなかった。けれど、すぐに理解した。躊躇いが無かったといえば、嘘になる。でも、何故か、このときは素直に彼の求めに応じても良いと思えた。
雪鈴がかすかに頷けば、コンが身を離す。雪鈴が立ち上がると、コンが濡れて身体に張りついた上衣の前結びになった紐をそっと解(ほど)いた。
下着の上衣も取れば、上半身は布を胸に巻いただけだ。彼はけして急がなかった。むしろ一つ一つあたかも尊い贈り物の包みを解くように、雪鈴の身につけた衣服を脱がせていった。
コンが海辺に放った紅いチマは、死者への弔いの花のようにゆらゆらと水面を漂い、やがて波に運ばれ消えた。