第三話 韓流時代小説 夢の途中【秘苑の蝶】 前編
～イ・コンこと文陽君が世子に冊立される？～
地方の田舎町で両想いの恋人として、幸せな時間を過ごしていたコンと雪鈴（ソリョン）。だが、幸せは長く続かず、国王からの王命で、コンは急きょ、都に呼び戻されることになった。雪鈴も彼と共に生まれて初めて漢陽へ赴く。
国王から王宮に呼ばれたコンは、そこで世子に指名されたのであった。
そして、雪鈴はコンに起きた身の激変について知らぬまま、ついに二人して出掛けた海辺の小屋で初めて結ばれる。
しかし、嵐の一夜を二人きりで過ごし邸に戻った若い二人を過酷な運命が待ち受けていた。
コンを訪ねてきた国王が雪鈴を見初めたのだ！
王はコンから強引に雪鈴を奪おうとしてー。
嵐の王宮編、怒濤の展開、前編。
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雪鈴は声を失った。
「そんな、やっと幸せになれたのに」
和嬪という女性は何と不幸な星の下に生まれついたのか。雪鈴は怖々と訊ねた。
「和嬪さまは、その後、どうされたのでしょうか」
コンは浮かない顔のまま応えた。
「和嬪は強運なようで、実のところは薄幸な女人だったんだろうな。第一王子が亡くなった時、既に二番目を懐妊していたんだ。でも、産み月に入る前に産気づき、難産が元で出産中に腹の子もろとも亡くなった」
「ーっ」
雪鈴は最早、言葉もなかった。何故だろう、遠い昔の顔も知らない妃のあまりにも不幸すぎる生涯に涙が止まらない。
コンがハッとしたように言った。
「済まない。こんな話を聞かせるべきではなかった。少なくとも、和嬪が復位した辺りで止めるべきだった」
雪鈴は涙を流しながら言った。
「いいえ、哀しいですけど、お聞きして良かったと思います。この国全土で風燈祭は珍しくはありません。でも、都の風燈祭の始まりにそんな哀しくて美しいお話が隠れていたなんて、考えてもみませんでした」
かすかに身を震わせる雪鈴を、コンがそっと引き寄せた。
「そうだな。結末は悲劇でしかないが、直宗大王と和嬪が心底愛し合ったというのは恐らく真実なのだろうし、良い話だ」
コンが宥めるように雪鈴の艶髪を撫で、額に掠めるような口づけを落とした。
まさにその時、また周囲が再び明るさを取り戻した。火の消された提灯に再び明かりが点ったのだ。
既に夜空を振り仰いでも、風燈はいずこへ消えたものか一つも見当たらなかった。直宗と和嬪の哀しい恋物語に相当、夢中になっていたようである。
コンが吐息のようにひっそりと笑みを零した。
「そろそろ戻ろうか」
「はい」
コンがそれとなく差し出した手に雪鈴も手を絡める。繋いだ箇所から温かなものが流れてきて、雪鈴の冷えた心を温めてくれる。コンの隣にいるだけで、雪鈴はいつも安心していられる。それは親鳥の翼に守られた雛のごとき感覚に似ていた。
雪鈴は思うままに口にした。
「夜空に飛んでいった風燈たちは、本物の星になったのかもしれませんね」
コンが優しい笑みを浮かべる。
「雪鈴の方がよほど浪漫的じゃないか。だが、そういうのは良いな。そうか、あの風燈は夜空に輝く星になったのか」
二人は誘い合わせたかのように、夜空を見上げた。漆黒の夜空には銀砂子を撒いたように数(あま)多(た)の星たちが煌めいている。初夏の夜空に浮かぶたくさんの星座は、女人の胸元を飾るまばゆい瓔珞(首飾り)のようだ。
手を繋ぎ、ゆっくりと屋敷までの帰り道を辿る。このまま永遠に屋敷に着かなければ良いのに。
雪鈴がぼんやりと考えたのも、何かの予兆があったのだろうか。
コンこと文陽君の屋敷はセサリ町の片隅にひっそりと建っている。王族の棲まいにしては、質素すぎるほどこぢんまりとしていた。
簡素な屋敷同様、庭もさして広くはないが、手入れがゆき届いた立派なものだ。コンは自ら草木花を丹精している。そのため、四季毎の花が咲き乱れ、日々、コンと一緒に庭で花を愛でるのも雪鈴の日課となっている。
町外れの屋敷が見えてきた頃には、道には人影どころか犬の仔一匹すら見かけなくなっていた。そろそろ、夜もかなり更けてきたのではないか。
と、見慣れた屋敷の門前で行きつ戻りつしている人影が眼に映じた。
コンが呟いた声が涼しさを増した夜風に溶け込む。
「スチョンだ」
二人は、どちらからともなく顔を見合わせた。何か、あったのだろうかという疑惑が雪鈴の中で警鐘を鳴らす。
スチョンはコンを襁褓の頃から育て上げたひとである。立場としては使用人ではあるが、実母を生まれてすぐに失ったコンは、実の母のように慕い大切にしていた。
スチョンは今夜が風燈祭と知っている。二人の帰宅が遅いのも端から承知しているし、現にコンは使用人たちに起きて出迎える必要はないと事前に言い渡していた。
尋常であれば、スチョンがこの時間にわざわざ門前で待ち受けているはずがない。つまりは尋常ではない何かが出来したのだ。
コンが知らず足早になり、雪鈴もそれに合わせた。
果たして、忠実な女中頭にして乳母は、いつになく緊張した面持ちだった。その顔は、うっすらと蒼褪めてさえいる。
これは間違いなく何事か起きたのだと、雪鈴は悟った。コンは大股でスチョンに近づき、訊ねた。
「何かあったのか？」
スチョンが緊張を滲ませた声で告げた。
「都から使者がお見えです」
コンが綺麗な眉をはねあげた。
「都からの使者？」
スチョンが声を上ずらせた。
「国王殿下のお遣いです」
「ーっ」
刹那、コンが息を呑む音が傍らの雪鈴にもはっきりと聞き取れた。
そこからは移動しながらの話となった。相手が国王の遣わした使者となれば、対応に過ちがあってはならない。
門内から敷地に入り、広い庭を横切ると正面玄関に至る。その前で使者らしい男が待ち受けていた。気の利くスチョンらしく、その前には茣蓙が敷かれている。コンは茣蓙に端座し、軽く頭を垂れた。