第二話 韓流時代小説 龍神の花嫁~風舞う桜~【秘苑の蝶】
コンと晴れて両想いになった雪鈴は、セサリ町の小さな屋敷で穏やかな日々を紡いでいた。そんなある日、年若い女中のソンニョが冴えない顔をしてるのに気づく。理由を訊ねた雪鈴に、ソンニョは必死の面持ちで訴えるのだった。「妹が殺されてしまいます、どうか妹を助けて下さい」。
昔ながらの小さな農村に伝わる「龍神の花嫁」伝説をめぐる悲劇。「花嫁」が残酷な生け贄だと真相を知った雪鈴はコンと共に龍神伝説が伝わるハクビ村に赴くのだがー。
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頭がどんよりと重い。頭の芯がズキズキと疼いて気分も最悪だ。いっそ吐いてしまった方がすっきり楽になれるだろうか。
雪鈴の翳(かげ)を落とす長い睫が細かく震えた。まるで深い水底(みなそこ)からゆっくりと浮上するように、意識が少しずつ覚醒する。
ーここは、どこなのかしら。
自分は何故、こんなにも深い眠りにたゆたったのか。いつもなら熟睡すれば、爽快感と共に目覚めるはずなのに、どうして頭痛はするし、最悪な気分なのか。
いや、第一、雪鈴はコンと共に町の宿に泊まっており、一晩熟睡して目覚めたはずだ。
ー目覚めた後、どうしたっけ。
自身に問いかけ、彼女は徐々に思い出していった。室のすぐ外に桜が一輪、花開いているのを見かけ、しばらく見入ったのだ。今年は暖冬だったせいか、桜の開花も早いのだ。
花は黙っていても、ちゃんと咲く季節を知っている。改めて自然の偉大さに想いを馳せた。
旅先で今年初めての桜を見るというのもまた趣があるというものだ。早起きは三文の得だというけれど、まさにその通りと浮き浮きとした気持ちで宿を出た。
それから、それからー。端からハクビ村に龍江の状態を見にゆくつもりだった。宿を出る間際、女将に似て口数の少ない娘に出逢い、コンが起きたら伝えて欲しいと頼んだのだ。
村の入り口で苦しんでいる老婆を見かけ、家まで付き添い介抱した。その老婆から衝撃の事実を聞かされたのだ。
そう、あれは愕くべき事実だった! 十五年前、老婆の孫娘がある日突如として攫われ、二ヶ月後に変わり果てた姿となって発見されたという。どうやら、孫娘は七十年前と同様、龍神の〝花嫁〟として捧げられたらしい。
人柱が立てられたのは、公式文書に〝大蛇騒動として〟記された七十年前だけではなかった。十五年前にも、罪無き少女が生け贄にされてしまったのだ。
衝撃は相当のものだった。どうやら孫娘を攫ったのは村長ではないようではあったけれど、一刻も早く村長の怖ろしい謀(はかりごと)を暴き、次なる犠牲者が出るのを食い止めなければならない。その一心でコンの許へ戻ろうとしていたのだ。
その途中、ふいに狼藉者に襲われ、意識を失った。
すべてを思い出し、雪鈴は恐る恐る眼を開いた。周囲は随分と暗かった。眼が闇に慣れるまでにしばらく刻を要し、やっと慣れた時、視界に映り込んだのは辺り一面の淡い闇でしかなかった。
その場所が洞窟だと気づくのには、更に時間が必要であった。ひんやりと素肌に触れる箇所が冷たい。
ここまで考え、雪鈴は全身が粟立った。今、我が身はどんな格好をしている? 恐る恐る視線を動かせば、剥き出しの肌の白さが岩肌に妙に鮮やかに浮き上がっていた。
更に緩慢に見回したところ、腕も剥き出しで、ふくよかな胸乳も露わだ。つまり、一糸まとわぬ全裸だった!
これは、どういうことだろうか。もとより自分はちゃんと衣服を着ていたはずだ。旅行用にとコンがわざわざ町の仕立屋を呼んで作ってくれた晴れ着で、お気に入りだったのに。
萌葱色の上衣に牡丹色の華やかなチマは、布地全体に透かし模様が織り出され、チマの裾には咲き誇る姫貝細工が、チョゴリの袖と裾には飛び交う銀色の蝶が刺繍された手の込んだ逸品だ。襟元、袖口に清国産の質の良い繊細かつ華やかな線帯(レース)が縫い込まれ、ひとめ見た刹那、あまりの美しい衣裳に雪鈴は声もなかった。
そんな彼女を見て、コンもまたとても嬉しそうだったのだ。
あのお気に入りの美しい衣服は今や無残にはぎ取られ、雪鈴はあられもない姿で洞窟に一人、置き去りにされている。
と、間近で人声が聞こえ、雪鈴はピクリと身を震わせた。
「それにしても、滅法綺麗な娘っこだな」
雪鈴の少し前方に、二つの人影が見えた。薄い闇を背負って立つ人影は逆光になって、顔がよく見えない。
逆光? 彼女は慌てて頭上を振り仰いだ。一面が闇に閉ざされた洞窟だと思い込んでいたけれど、はるか天上にぽっかりと穴が空いている。そこまで大きな穴ではないものの、降り注ぐ陽光のせいで、洞窟内がほのかに明るいのだと気づいた。
いや、ここがほの明るいのは天上から差し込む光のせいだけではない。よくよく見ると、洞窟内は岩壁全体が光っている。淡く発光しているとでもいえば良いのだろうか。
天井や壁、床には氷柱のような形をした結晶があちこち幾つも見られる。それらは殊に光り輝き、まるで宝石のように透き通って見えた。こんなときでなければ、さぞ美しいと見蕩れたに違いない。
更に視線を巡らせ、雪鈴は息を呑んだ。
宝石のごとく煌めく柱を頂く岩壁の手前、一部は波打ち際になっている。ひたひたと水が洗うその向こうに満開の花をつけた桜の大樹がすっくと聳えていた。
それは明らかに現(うつつ)とは思えない風景であった。丁度、天上から入る陽光が桜樹に降り注いでいる。風もないのに、時折、ちらちらと桜貝のような花びらが空(くう)を舞う。
やや盛りを過ぎているのか、既に根元には無数の花びらが薄紅色の絨毯を織りなしていた。
咲き誇る花また花をつけ、無数の花で緑の若葉も見えないほどだ。ちょうど大樹全体が薄紅色の彩雲か光煌めく紗を纏っているかのようでもある。
水晶のごとく煌めく石の柱が満開の桜を囲んでいる。まさに夢の世界に迷い込んだかのような幻想空間としか言いようがない。その間も、洞窟内は全体が蒼白い光を放ち煌めいているのだった。
むさ苦しい男二人は、到底、場違いに思える。
ーと、まだ、こんなことを考えていられる中は良かった。二人の男は、雪鈴の身体を無遠慮に眺め回しているのだ。
雪鈴はできる限り身を縮めた。身体を折り曲げ咄嗟に両手を交差して、不躾な視線から守るように我が身を抱いた。
男たちは片方が熊のような大男で、口回りには豊かな髭を生やしている。もう一方は対照的で、腺病質なほど痩せており、蒼白い顔をしていた。
雪鈴は咄嗟に叫んでいた。
「お前たちは何者だ、何ゆえ、私をここに連れてきたのだ」
男たちの一人、ひげ面が急に腹を抱えて笑い出した。