第一話 後編 韓流時代小説 後宮に蝶は舞いて~Everlasting love~【朝鮮烈女伝異聞】
嫁いで四日目に夫を失った少女孫雪鈴(ソン・ソリョン)。夫の死の悲しみも冷めやらぬある日、舅と姑から夫に殉死するように迫られー。
朝鮮王朝時代、夫に先立たれた未亡人は、しばしば婚家から不当に自害を強いられることがあった。いわゆる「烈女」制度が引き起こす悲劇だ。寡婦となった妻は亡き夫に操を立て見事に生命を絶つことが何よりの名誉とされる思想があり、婚家の義両親は、その栄誉を受けたいがために嫁に死を迫ったのだ。
朝鮮王朝中興の祖と民から愛された王、直祖と王を支え続けた賢后・孝慧王后の出逢いから、数々の苦難を経て成婚に至るまでを描く。
ローダンセ 花言葉ー変わらぬ愛
*********************************
だが、雪鈴は違っていたらしい。息を詰め緊張した面持ちで、清明に訊ねている。
「どこか痛むのですか?」
清明が子どものように幾度も頷いた。
「お腹が痛いわ。それに腰も少し」
コンは鋭く息を吸い込んだ。我ながらヒュッという音がやけに大きく聞こえる。
彼はまたしても不安に陥り、雪鈴を見た。
「どういうことだろう?」
しかし、雪鈴は応えなかった。また清明を覗き込み、優しく問うた。
「どんな感じの痛みですか」
清明は眼を瞑り、か細い声で言葉を紡ぐ。
「日持ちの良くないものを食べたときのようよ」
「食あたりのような感じ?」
「ええ。しくしくと痛んで、少し治まったかと思うとまた痛くなるの。気のせいか、痛みが少しずつ強くなってきているみたい」
雪鈴は頷き、乱れた清明の髪を撫でた。
「痛むでしょうけど、少し我慢して下さいね。きっと大丈夫ですから」
雪鈴が立ち上がり、室の隅にゆき差し招く。コンが側に行くと、彼女は囁き声で告げた。
「どうやら、お産が始まったようです」
またしても彼はガツンと頭を殴打された気がした。それほどの衝撃だった。
「ーっ」
彼は息を吸い込んだ。
「清明を連れ帰ることはできないものか」
雪鈴は憂い顔で言った。
「この雨では無理ですね」
姫乃原を離れる際、連れてきた馬は、そのままにしている。大樹に繋いできたから、この程度の降りなら雨宿りはできているだろう。帰るにしろ、姫乃原まで清明を運ばねばならない。
雨脚は多少は弱まったとはいえ、依然としてかなりの雨だ。この雨の中をいかにコンとはいえ、清明を抱いて姫乃原まで運ぶには無理がある。第一、雪鈴に言わせれば、清明は既に産気づいているというのに、陣痛が来た妊婦を安易に動かせるものではない。
ましてや、馬に乗せて移動など論外だ。
コンは髪をかきむしりたい気分だ。
「俺が下山して、医者を連れてくるという手もあるにはあるが」
彼はそこで口を噤み、頭を抱えた。
「間に合わないかもしれない」
ーどうすれば良いんだ。
またも妹を連れ出すべきではなかったと自戒の念に囚われる。
物も言えないでいる彼に、雪鈴は彼の気持ちを見抜いたように低声で告げる。
「お産の進み方は人それぞれです。清明さまは初産ゆえ、刻はかかると思いますが、初めてのお産でも一刻ほどで生まれることもあるそうです」
コンは眼を剥いた。
「一刻ー」
そんなに早く生まれてしまえば、コンが下山する前には出産は終わってしまうだろう。
つまりは、どうしたってもう、ここで産むしかないということだ。
彼は自嘲気味に呟いた。
「全部、俺のせいだ。清明の我が儘にいつだって甘い顔をして付き合ってきた。俺がきっちりと止めていれば、屋敷で出産することができたろうに」
雪鈴がきっぱりと言った。
「過ぎたことを後悔しても意味はありません。コンさまが清明さまのために曲げて遠出をお許しになったことはよく理解しています。そして、今、少なくとも、もし止めていればと考えたとしても、何の易も無い。今は、お産を無事に終わらせることが先決ではありませんか」
一縷の望みを賭けて言う。
「陣痛が治まることはないだろうか」
雪鈴は小首を傾げた。
「妊娠後期には前駆陣痛といって、しばしば、弱い陣痛が起こることはままあるそうです。さりながら、清明さまは妊娠後期ではなく、臨月です。しかも、先刻、ご自身が痛みは少しずつ強くなってきていると仰せでした。これは典型的な出産の始まりの兆候です。残念ですが、このまま本格的に陣痛がついてくる可能性が高いかと」
「ー」
コンは絶望的な想いになり、唇を強く噛みしめた。あまりに強く噛んだので切れたのか、口中に鉄錆びた味がひろがった。
雪鈴が低い声で言った。
「始まったお産は、止めようがありません」
それは自らに言い聞かせるような口調であり、コンは眼を開き彼女を見つめた。
「昔、従姉のお産に立ち会ったことがあります」
その時、雪鈴の中でふいに呼び覚まされた記憶があった。難産というほどではなかったけれど、それでも従姉は一日、産みの苦しみに耐えた。雪鈴は優しい従姉がこのまま息絶えてしまうのではないかと泣き出したものだ。
その時、従姉に付き添っていた産婆がまだ幼い雪鈴に出産に関しての様々な知識を授けてくれた。それがこんなところで役に立つとは、雪鈴自身、予想だにしなかった。
ー女の身体というものは、奇跡を起こせる。誰に教えられずとも、赤ン坊は月満ちれば一人でに生まれてくるものだ。泣かんでも良い。じき、玉のような嬰児(ややこ)が生まれるからのう。
しまいに産婆はそう言って、雪鈴の頭を撫でてくれた。あれは確か十歳になるかならずの話だろう。
コンは一面の闇の中でひと筋の救いを見いだしたように思えた。
「できるか?」
小さな少女は凜として言った。
「全力を尽くします」
彼は深々と頭を垂れた。
「頼む、この通りだ。妹を何とか助けてやって欲しい」
「頼むこの通りだ、妹を何とか助けてやって欲しい」
コンは額が床につきそうなほど頭を下げていた。いつも落ち着いた理知の光を湛えた夜色の瞳は潤み、今にも泣き出しそうだ。
雪鈴にとって、彼は常に頼り甲斐のある大人にしか見えなかった。そんな彼が今は、とても無防備で傷つきやすく脆そうに見える。
出産に立ち会い、無事に赤児を取り上げるのは産婆の仕事である。たった十六歳、妊娠すら未経験の自分に務まるとは到底思えない。
しかしながら、清明を案ずるコンに〝できない〟とは言えなかった。第一、この場に女は自分しかいないのだ。できそうになくても、やらねばならない。いや、やるしかなかった。