韓流時代小説 後宮に蝶は舞いて~Everlasting love~【朝鮮烈女伝異聞】
嫁いで四日目に夫を失った少女孫雪鈴(ソン・ソリョン)。夫の死の悲しみも冷めやらぬある日、舅と姑から夫に殉死するように迫られー。
朝鮮王朝時代、夫に先立たれた未亡人は、しばしば婚家から不当に自害を強いられることがあった。いわゆる「烈女」制度が引き起こす悲劇だ。寡婦となった妻は亡き夫に操を立て見事に生命を絶つことが何よりの名誉とされる思想があり、婚家の義両親は、その栄誉を受けたいがために嫁に死を迫ったのだ。
朝鮮王朝中興の祖と民から愛された王、直祖と王を支え続けた賢后・孝慧王后の出逢いから、数々の苦難を経て成婚に至るまでを描く。
ローダンセ 花言葉ー変わらぬ愛
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日々、書を読み、暇つぶしをするだけの味気ない一生の代わりに何不自由ない生活が保証される。いや、コンのようになまじ名前だけの末端王族であれば、その生活の保障すら怪しいものだ。立場は下の臣下より貧相なわび住まいを強いられている王族も少なくはないだろう。
生が続く限り、王族という足枷に囚われ、名誉だけが取り柄の無味乾燥な日々を強いられる。コンのように若さも才覚もある人にとって、それがどれだけ苦痛であったか。彼がどれだけ苦しんできたか、雪鈴には推し量るすべもないのだ。
雪鈴は淡く微笑んだ。
「判りました。コンさまが今まで通りで良いと仰せなら、私は仰せに従います」
ふわりと微笑む。
「コンさまに従うのがお仕えする私の務めですゆえ」
何より、あなたが苦しむのを見たくないから。私が願うのは、ただ、あなたの幸せと笑顔だけだから。雪鈴はけして実ることのない我が想いを深く心の奥底に埋めた。
一方、コンは花がひらくような雪鈴の微笑みから眼が離せなかった。
ーこの娘は何と明るく優しく笑うのか。
何とももどかしい想いが溢れ、彼は激情のままに雪鈴を再び抱き寄せた。
雪鈴の声に狼狽が混じる。
「コンさま?」
コンは雪鈴の艶やかな髪に顎を乗せ、くぐもった声で呟いた。
「しばらくこのままでいさせてくれ。これ以上は何もしない。そなたを哀しませたり苦しませたりするようなことは一切しないから」
コンは嫌がるようなことをする人ではない。雪鈴も判っていたから、大人しくしていた。雪鈴自身も彼を好きなのだ。好きな男に抱きしめられ、本当は嬉しくないはずがない。
現に、こうして彼にしっかりと抱きしめられていると、胸はもう煩いほど高鳴り、身体は燃えるように熱い。
コンはしばらく雪鈴を腕に抱いていたが、約束通り、それ以上は何もしなかった。
彼がふと思い出したように言う。
「名残惜しいのは山々だが、これから出掛けねばならない。着替えを手伝ってくれ」
雪鈴はコンの背後に回り、紫の官服を着せかける。それから前に回り、パジの紐を結んだ。少し離れて検め、また近づいて紐の形を整える。仕上げに帯を彼の腰に回し、背後でカチリと締める。
また前に戻り、自分の仕事ぶりを全体的に確認してから頭を下げた。
「お支度が調いました」
コンに官帽を渡しながら告げれば、コンがニヤリと笑った。
「見えないだろう? 品もないし」
王族には見えないだろうと問われたのだとは判るが、そんなことは断じてなかった。
当たり前だけれど、官服を纏った彼を見るのは今日が初めてだ。濃い紫の官服はコンの美しさをこれ以上ないほどに際立たせていた。まったくもって眩しくて正視できないほどではないか。
「いえ、よくお似合いで、ご立派です。私には光り輝いているように見えますもの」
言ってから、両手で口を押さえた。
馬鹿な自分。馬鹿正直に胸の内をさらけ出すなんて。彼に抱きしめられたときの熱がまたぶり返しそうだ。
でも、コンは嬉しげに笑った。
「お世辞でも、雪鈴に褒められると嬉しいよ」
ーお世辞じゃないのに。
とは口が裂けても言えない。
その時、雪鈴はコンの腰に嵌めた帯が少し傾いているのに気づいた。何という粗忽者だろう! 慌てて手を伸ばしたのと、コンもまた自分で直そうとしたのと時機が合いすぎた。二人の手が束の間、触れた。直後、二人とも弾かれたように飛びすさって離れた。
まるで、触れてはならないものに触れたかのような反応だが、つい先刻はコンにしっかりと抱きしめられていたのだから、手が触れた程度で過剰反応するのは不自然な気もする。
まるで上の空の雪鈴は、やはりコンも自分とまったく同じ状態であることに気づくゆとりもなかった。
コンが口早に言った。いつになく彼の声は上ずっていた。
「それじゃ、出掛けてくるよ」
雪鈴はコンの部屋の前でこれから町役場に出掛けるという彼を見送った。
「行ってらっしゃいませ。道中、お気をつけて」
コンの姿が廊下の角を曲がり見えなくなっても、彼女はその場に立ち尽くしていた。
無意識に右手の先を左手で触れる。コンの手が触れた箇所は火傷したかのように熱を持っていた。
あろうことか、コンは文陽君イ・コン、王族の貴公子だった。考えてみれば、コンのさばけた気さくな人柄であっても滲み出る気品は、隠しようのないものだった。
愚かな自分は彼の正体を知らず、どこかの中流両班の次男か三男かと思い込んでいたのだ。コンが王族と知り、距離を置こうとしたけれど、彼自身が今まで通りに接して欲しいと懇願されたのだ。名ばかりの王族の哀しさが理解できるだけに、彼の懇願にも似た望みを退けることはできなかった。
けれど、コンが王族と知ったからには、先ほども考えたように、彼への思慕は葬り去らねばならない。自分の複雑な事情だけでも彼にはふさわしくないのに、その上、王族となれば、更に彼は遠い人になってしまった。
今は彼もまだ若く独身のようだが、近い中には、釣り合いの取れた上流両班家から伴侶を迎えるに違いない。妻を娶って跡継ぎを儲けるのもまた、名ばかりとはいえ王族の責務の一つだ。国王の血を繋ぐ王族男子は一人でも多い方が王統存続のためには必要とされるからだ。
永遠に秘めたる想いはけして外に出てはならない。
だがー。地中深くに眠っていた種子は刻を経て季節が巡れば、芽吹くのは世の習いである。そのことを、雪鈴はむろんコンもまだ知らなかった。
屋敷を出たコンは、屋敷前で下僕が用意した駿馬に跨がった。役場まではさしたる距離ではないが、流石に王族が伴も連れず徒歩で役場にゆくわけにはゆかない。王族はむろん、両班も高官ともなると、大概は輿に乗り、ふんぞり返って町中を行き来する。もちろん、たくさんの供回りを引き連れての移動だから、道を行き交う民たちには実のところ傍迷惑な話なのだ。
また、それなりの地位のある人物なら、道を譲るだけではなく、民は道の両脇へ並んで頭を下げなければならない。通行するのが国王の乗った鳳輦なら、土下座ものだ。
実のところ、コンはこの大仰な行列が大嫌いだ。都にいる時分、彼の父も立派な輿に貧相な体躯を尚更誇示するかのように座り込み、輿に揺られて参内していた。あれを見る度、実に滑稽だと軽蔑したものだ。
身の丈に合わないことをしようとすれば、単なる道化でしかないと父は知らない。まあ、父はただ、しきたり通りのことをしているだけであって、彼のように伴の一人も連れずに歩く方がかえって両班たちからは変人扱いされているのは判っているが。
それにしても、愛しい女に見送って貰うというのは良いものだ。そこで、コンははたと当惑した。
ー俺は雪鈴を愛しているのか?
彼女を好ましいと思っている自覚はあった。何かは知れないが、彼女を苦しめているすべてのものから守ってやりたいと考えているのも。