韓流時代小説 秘苑の蝶~花は凜と咲くー彼が行き場のない私に居場所をくれた。後少しだけ生きてみよう | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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韓流時代小説 後宮に蝶は舞いて~Everlasting love~【朝鮮烈女伝異聞】

嫁いで四日目に夫を失った少女孫雪鈴(ソン・ソリョン)。夫の死の悲しみも冷めやらぬある日、舅と姑から夫に殉死するように迫られー。

朝鮮王朝時代、夫に先立たれた未亡人は、しばしば婚家から不当に自害を強いられることがあった。いわゆる「烈女」制度が引き起こす悲劇だ。寡婦となった妻は亡き夫に操を立て見事に生命を絶つことが何よりの名誉とされる思想があり、婚家の義両親は、その栄誉を受けたいがために嫁に死を迫ったのだ。

朝鮮王朝中興の祖と民から愛された王、直祖と王を支え続けた賢后・孝慧王后の出逢いから、数々の苦難を経て成婚に至るまでを描く。

  ローダンセ 花言葉ー変わらぬ愛

*****

 男が優しい声音で言った。
「そなたにとっては、大切なものなのだろう」
 雪鈴は不思議そうに眼をまたたかせた。
「何故、お判りになるのですか」
 彼が思案げに言った。
「そなたを見つけた時、袖に仕舞っていたのだ。身投げをするときまで肌身離さず持っていたなら、大切なものに違いないと思った」
 ややあって、少し言いにくそうに言う。
「これと一緒に、紙らしいものも見つかったのだが、生憎と長時間、水に浸かったせいで袖から取り出すときに破れてしまった。何やら字が書かれていたようだ」
 雪鈴の中で閃くものがあった。袖に入っていた紙とは、恐らくは良人が亡くなる直前、自ら書いた手蹟に違いなかった。雪鈴は良人が息を引き取った直後、咄嗟に折りた畳んで袖に入れたのだ。
 崖から飛び降り長い時間、谷川を流れていたなら、薄い紙がふやけてしまうのも致し方なかった。
 雪鈴は躊躇いがちに訊いた。
「あなたさまが見つけて下さった時、私はどのような状態だったのでしょうか」
 男は考えつつ、そのときの状況を教えてくれた。昨日の夕刻、雪鈴が谷間の河原に打ち上げられていたこと。状態からして、どこか別の場所で入水して、男が釣りをしていた場所までたまたま流されてきたのであろうこと。
 彼は心底安心したような表情で言った。
「そなたを屋敷に連れ帰ってから、丸一晩、一度も眼を覚まさなかった。医者は若いゆえ大丈夫だろうと話していたが、気が気ではなかった」
  つまり、今は彼が雪鈴を救出してから一夜明けた朝ということだ。
 ゆきずりの彼がそこまで心配してくれたと思うと、申し訳なかった。それでも、実の両親にさえ見捨てられた身にとっては、彼の優しさが涙が出るほど嬉しかったのも事実だ。
 着ていた衣服はびしょ濡れだったため、すぐに屋敷に連れ帰って着替えさせ、医者に診せたことまでを順序よく言葉を選んで話してくれた。雪鈴に余計な衝撃を与えないように、極力気を遣いながら説明してくれるのも判った。
 雪鈴は頬を染めた。
「言いにくいことを申しますが、あなたが私を着替えさせて下さったのでしょうか」
 刹那、男が弾けるように笑った。
「まさか。幾ら俺に下心があったとしても、瀕死の若い女人に恥知らずな真似はしない」
 雪鈴は何という愚かな質問をしたのだとますます赤くなった。
「申し訳ありません。助けて頂いたのに、失礼な発言でした」
 男は鷹揚に言った。
「いや、若い女性の身なれば、気になるのは当然だ。安心しなさい。そなたを着替えさせたのはスチョンだ」
 物問いたげな視線に、男が笑った。
「俺の母代わりの乳母だ」
 雪鈴は心から言った。
「随分とご迷惑をおかけしてしまったんですね、私」
 男が小さく首を振る。
「困ったときは相身互いと言うだろう? もし俺に感謝してくれているなら、次にそなたが困った者に出逢った時、その者を助けてやれば良い」
 雪鈴は微笑んだ。素敵な考え方だと思った。相身互いだなんて、両班でもそんなことを考える人がいるのだと知って嬉しくなった。
 雪鈴が知る両班とは、他人の不幸をネタに噂話をするのが大好きで、誰かの幸福は嫉むか足を引っ張るしかしない権高で独りよがりな人ばかりだ。
 しかし、こういう思考の持ち主は一般的に両班の世界では変わり者、もしくは鼻つまみ者扱いされると相場が決まっている。この男もそうなのかもしれないとひそかに考える。
「そうですね。是非とも、そのようでありたいと思います」
 素直に言えば、男が子どもに言うように言った。
「良い娘(こ)だ」
 それにしても、彼は自分を何歳だと思っているのだろう。雪鈴は彼に子ども扱いされるのが何となく嫌だ。
 男が立ち上がった。恩人を寝たままの体勢で見送ることはできない。雪鈴が起き上がろうとするのに、男が制した。
「構わない。ゆっくり寝ていろ。長話をして済まなかった」
 静かに両開きの扉が閉まる。雪鈴は男が去り際、渡してくれた白兎を無意識に握りしめた。
 あの男は何らかの事情があって、雪鈴が入水したのだろうと考えているようだ。確かに大体においては間違いではなかった。
 身許についてしつこく詮索もしないし、恐らく崔家に知らせてもいないだろう。確かな根拠もないのに、あの男は信頼できる人だという確信があった。
 亡き良人がくれた兎を握りしめ、雪鈴は想いに耽る。これを取りに戻ったばかりに、雪鈴は死の危機に瀕することになった。
 けれど、良人の形見を取りに戻ったことを後悔はしていない。取りに戻ると決めたときも、崖から飛び降りるときも、自分なりに考えて出した結論だ。
 飛び降りる直前には、ここで自分の生命も尽きるのが宿命なのだろうと思った。宿命は天命であり、変えられない。ならば見苦しくあがかず、天の決めた定めを受け容れようとした。
 だが、自分は死ななかった。どうやら天はまだ自分に生きろということらしい。ならば、また宿命を受け容れて生きるのみだ。
 仮にあの男が崔家に報せ、義両親に引き渡すのであれば、やはり我が生命はそこで終わりという天の導きだろう。
 一人になったことで、心の余裕ができ、自分の来し方ゆく末について落ち着いて考えるゆとりができた。もう、怖れまい。怖れず、これから起こりうるすべてを従容として受け容れ、その上で前に進もう。
 天が自分に生きろと道を指し示す限りは。たとえどれだけ、みっともなくとも、あがいたとしても生きてみよう。
 この時、揺れ動いていた雪鈴の心は迷いなく定まったのだった。
 安心したせいか、急に眠くなった。雪鈴は静かに眼を閉じ、安らかな眠りにいざなわれていった。こんなにも安らいだ気持ちで眠れたのは本当に久しぶりな気がする。
 夢の世界に入る一瞬、彼女の瞼には誘うように一羽の銀色の蝶がひらひらと舞っていた。銀色の粉を宝石のように煌めく羽からまき散らしている。
 蝶が消えたと思った刹那、雪鈴の意識もまた深い眠りの淵へと再び沈んでいった。
  
 例の行き倒れーあの娘の室を出てから、文陽君は我知らず深い息を吐いた。やはり、あの娘、相当の訳ありのようだ。
 彼が訊ねても、入水した理由どころか、名さえ明かそうとはしなかった。
 若い娘のことだ。世を儚むとすれば、大方は男に欺され捨てられたに決まっている。その推測は娘を見つけたときから変わってはいない。
 だとしても、家族にすら安否を知らせたくないというのは尋常ではなかろう。自分を辱め弄んだ男には知られたくないかもしれないが、娘の無事を案じているに違いない両親にだけは普通、連絡したいと望むものではないか。
ー心配している家族なんて、誰もいません。むしろ、私が死ねば良いと皆が思っています。
 彼女の振り絞るような声が今も心に残る。悲痛な響きさえ帯びていた声だ。