韓流時代小説 秘苑の蝶~花は涙に散るー崖から飛び降りた雪鈴。銀蝶が彼女を守るように包み込む舞う | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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韓流時代小説 後宮に蝶は舞いて~Everlasting love~【朝鮮烈女伝異聞】

嫁いで四日目に夫を失った少女孫雪鈴(ソン・ソリョン)。夫の死の悲しみも冷めやらぬある日、舅と姑から夫に殉死するように迫られー。

朝鮮王朝時代、夫に先立たれた未亡人は、しばしば婚家から不当に自害を強いられることがあった。いわゆる「烈女」制度が引き起こす悲劇だ。寡婦となった妻は亡き夫に操を立て見事に生命を絶つことが何よりの名誉とされる思想があり、婚家の義両親は、その栄誉を受けたいがために嫁に死を迫ったのだ。

朝鮮王朝中興の祖と民から愛された王、直祖と王を支え続けた賢后・孝慧王后の出逢いから、数々の苦難を経て成婚に至るまでを描く。

  ローダンセ 花言葉ー変わらぬ愛

*****

 

 雪鈴は、母が我が身をここに連れてきた理由を既に知っていた。
 母の頬には幾筋もの涙の跡があった。
「お父さまの本心ではないのよ、それだけは判って差し上げてちょうだい」
 母はまた雪鈴の手を我が手で包み込んだ。
「逃げなさい。あなたは今日、ここへは来なかったことにするわ。こんなこともあろうかと、崔家の不幸を教えているのは、ごく一部の上級使用人たちだけなの」
 雪鈴は母の若々しい顔を見た。母は三十三歳だ。十四歳で初子を産んで以来、毎年のように懐妊して年子ばかり四人産んだ。今回は雪鈴を産んで以来、十六年ぶりの懐妊である。
 恐らく、今日ここを出たら、両親には二度と生きて逢うことは叶うまい。
「お身体に気をつけて、元気な弟か妹を産んで下さい」
 末っ子だった雪鈴はずっと弟妹を欲しがった。弟妹が生まれるのを楽しみにしつつも、遠方の崔家に嫁していったのだ。
 母が大きく突き出た腹部を大切そうに撫でた。
「少し前に夢を見たの。この子が生まれて、また女の子だという夢。あなたを失ってしまうから、夢で見たように女の子なら良いと思っている。大切に育てるわ、あなたの分まで」
 母のなにげない言葉に、この瞬間、雪鈴がいかほど打ちのめされたか。母が知ることは永遠にないだろう。
 母の言葉は、雪鈴にはもう二度と生きて逢えないと端から諦め割り切っている心境をはっきりと語っていた。
 つまり、父も母も婚家から死ねと迫られている娘がこの先、どうなろうとも、もう仕方ないと覚悟しているということだった。
 雪鈴は黙礼し、背を向けた。何か言えば、恨み言と泣き言しか出てこないように思えたからだ。永の別れであるなら、それはあんまりだ。せめて、良い印象をとどめておきたい。
ー私はもう要らないと言われたも同然。
 涙が次々に溢れた。義父母に死ねと言われたときより、よほど残酷だと思った。
 実の両親からさえ、見捨てられた自分があまりに惨めで憐れだった。
 判っている。両親にしてみれば、どうしようもなかったのだ。両班の世界ではこの上ない栄誉とされる〝烈女〟。父も母も相応の両班家で生まれ育った生粋の両班だ。
 たとえどれほど理不尽だと判っていても、崔家の義両親の要求も〝両班の常識〟に照らし合わせれば、けして矛盾はせず、むしろ理に適っているのだ。
 それが判るだけに、父は雪鈴を受け容れられない。母が言うように、実家に逃げ込んだ娘を見て見ないふりをし
ー残念ながら、不肖の娘は当家には一切寄りつきもしなかった。
 と、崔家にシラを切り通すのがたった一つ、父が娘にしてやれることなのだ。
 ここで死にたくないと婚家から逃げ、泣きついて出戻った娘をよしよしと受け容れれば、かえって父の方が世間の笑い者になる。儒教社会、両班の世界はそういうものだ。
 それでも。
 雪鈴は、またアジョンの手の感触と温もりを思い出した。何のゆかりもないアジョンは名誉どころか生命さえ擲って、雪鈴を救おうとしてくれた。両班の世界で生きる実の父母は柵(しがらみ)に縛られるあまり、娘を見殺しにしようとしている。
 幼い頃から、幾度となく〝内訓〟を読まされた。女は生涯に渡って父、良人、息子に従わねばならず、清く慎ましくあらねばならないと徹底的に教え込まれた。
 この朝鮮では国王殿下が至高の方であり、その次に国王さまゆかりの王族の方々、そして我々両班こそが王さまや王室の方々に次いで尊いのだと繰り返し聞かされて育った。
 民は王さま、王族、両班のために存在し、我々のためには民の生命は犠牲になったとしても仕方がないという考えが通底している。
 けれど、本当にそうなのだろうか。実の娘をみすみす見捨て、見殺しにせねばならないのなら、両班の常識というのは何と詰まらない愚かなものなのだろう。
 そんなものは所詮、外側ばかりが立派な偽黄金(メツキ)の仏像のようなものだ。尊くも何ともない。アジョンのように何の見返りどころか、我が生命さえ捨てて赤の他人を救おうとする民の心こそがこの上なく尊いものだ。
 この瞬間、雪鈴は、はっきりと悟った。尊いのは生まれながらの身分ではなく、その人の生き方、考え方、内面であると。
 この考え方は、後々まで雪鈴の生き方を貫く芯のようなものになった。
 そして、雪鈴は再び苦難の逃亡を続けることになった。その最中、亡き良人の形見ともいうべき雪兎を離れに置いてきてしまったことに今更気づいたのだ。
 いかにハソンとのたった一つの想い出を忍ぶよすがだとしても、その時、潔く諦めるべきであった。敢えてハソンの形見を取りに戻ろうと決意したときに雪鈴の運命は決まってしまった。
 何とか崔家に忍び込み、ハソンの形見を取り戻したまでは良かったけれど、案の定、若い女中に見つかってしまった。
 気がつけば、義父母が放った玄人の刺客たちに崖際まで追い詰められているという体たらくだ。 
 刺客の連れた猟犬がしきりに吠え立てる。鳴き声が耳障りなほど煩かった。
 先頭に立つ見知らぬ二人の中の一人が短刀を手のひらで回した。まるでわざと見せつけるかのようだ。
「さんざん手間かけさせやがったな、若奥さま」
 雪鈴は毅然と言い放つ。
「無抵抗な女に男数人とは、恥を知れ」
 傍らの男がゲラゲラと笑い出す。
「えらい気の強い女だな。これだけの器量と若さで、みすみす殺すのか? あんたを置いて死んだ亭主もさぞ心残りだったろうよ」
「おい、殺す前に俺らで味見しても罰は当たらねえだろ」
 相方が呆れたように肩をすくめる。
「止めとけ。俺らは既に依頼主から仕事料を前金で貰ってる。気の毒だが、この若奥さまには崔家の旦那の命令通り、死んで貰わなきゃならんのだ」
 泣くものか。こんな卑劣な男どもにも、こいつらよりも卑劣極まりない崔家の義両親にも、涙ひと粒見せてやらない。
 最初の男が言った。
「ここで俺たちに切り刻まれるのが良いか。それとも、ここから飛び降りるか、俺は情け深いから、この世の名残に、せめてそれくらいは選ばせてやるさ」
 傍らの男が引き取った。
「どうする? 思い切って飛び込んじまった方が楽に逝けるぜ? そうしたら、大人しく俺らに刺し殺されたってことにしてやるからさ」
 崖の最先端に白い小さな花が咲いているのがチラリと視界に入る。枯れて茶色く変色しているものもある。残った茎に霜柱がついて、氷の花が咲いているように見えた。
 雪鈴の脳裡に懐かしい光景が蘇った。
 孫家の庭には、シモバシラがたくさん咲いている場所があった。幼い頃、白い花を白米に見立て、乳母と共にままごとをして遊んだ。
 シモバシラは秋頃に咲く、穂状の白い花であり、その外観が冬にできる霜柱に似ている。
ーああ、叶うなら、もう一度、我が家のあの可憐なシモバシラの花を見たかった。
 もう実家に二度と戻れない自分があの可憐な花を見る機会は永遠に巡ってこない。 
 彼女が最後の瞬間に瞼に思い描いたのは、良人の顔ではなく、懐かしい故郷で咲く、白い可憐な花だった。 
 雪鈴は小走りに進み、眼を固く瞑って身を躍らせた。彼女の小さな身体は吸い込まれるように落ちてゆき、少しく後、はるか下方で水飛沫が上がった。
 折しも小雪がちらついてきた。ふうわり、ふわりと舞う真白(ましろ)な雪が、私を飾ってくれる。今日、永遠に戻ってくることのない長い長い旅に出る。銀雪の衣裳を纏った私は、きっと花嫁御料のように綺麗だろう。
 ハソンさまとの婚礼で纏った衣裳より、きっと今日の方が千倍万倍も美しいはずだ。多分、あの婚礼は偽りだったか、狐が見せた夢だったのだ。だって、夢でもなければ、こんなに早く覚めることはないでしょう?
 そう、今日が私の本当の婚礼に違いない。私は雪の花嫁衣装を着て、素敵な殿方に嫁ぐの。
 でも、私の旦那さまになる方は、どこにいるのかしら。
 真っ逆さまに落ちてゆく雪鈴の視界に、ふいに眩しい銀色の光が洪水となって溢れた。あまりに眩しい光に眼を射られ、何事かと眼を瞠れば、無数の銀に煌めく蝶たちが周囲を優雅に飛翔しているのだ。
 銀色のたくさんの蝶たちは雪鈴を守り導くかのように、ふわふわと彼女を囲んで漂っている。
ー何という美しい光景なの。
 きっと今生の名残に神が憐れんで見せてくれた美しい夢まぼろしに違いない。
 雪鈴は眼を閉じた。
 今度こそ、二度と覚めない長い夢の中へ入ってゆく。
 彼女の身体はあまたの銀蝶に包まれ、銀色のまばゆい光に包まれるかのように輝きながら落下していった。
 少女の固く閉じた瞼から、水晶のような涙がこぼれて散った。