☆☆連載☆☆韓流時代小説 漢陽の春~月下に花はひらく
第6話では、美貌の義賊とお転婆美少女との、すったもんだ恋物語もいよいよ完結!!6話
☆これまでのお話☆
香花(ヒャンファ)は14歳。
早くに母を失い、下級官吏だったた優しい父と二人暮らしであったが、その父も病気で失った。
かつては名門として栄えたキム家であったが、今は没落の一途を辿るどろこか、香花に婿が見つからなければ、断絶になってしまう。
香花は没落した実家を建て直すため、高官の屋敷に奉公に出ることになった。 上流貴族の子どもの家庭教師として住み込みで働くことになったのだ。
だが、やがて、その屋敷の主人に惹かれ、恋に落ちる。。。
しかし、相手は愛妻を失い、いまだに忘れられず、二人も子どものいる男であった。
やがて、その男が怖ろしい国を揺るがす陰謀に荷担していることを知る香花。 それでもなお男を信じようとする彼女の前に、光王(カンワン)と名乗る美貌の義賊が現れる―。
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結局、知勇は香花に求愛した直後、亡くなった。父親の傍若無人ぶりを諫めようとして、父と揉み合っている中、誤って父を殺してしまったのだ。といっても、知勇が直接手を下したわけではない。組んずほぐれつしている最中に、転倒した使途が頭を強打し、それが因で亡くなったのだ。
が、孝行息子の彼は父を殺してしまったと深い悲嘆の淵に沈み、自ら屋敷に火を放ち、父の骸と共に焔に包まれて死んだ。
知勇の早すぎる死を誰もが悼み、惜しんだ。香花もまたしばらくは茫然自失状態だったが、それでも、あのときの自分の選択は間違っていたとは思わない。知勇が存命していれば、彼を慕う娘は次々に現れただろう。
知勇は父の暴挙を息子として止められない自分を恥じ、深く懊悩していた。そんな彼の姿を見る度、香花まで辛くなった。だが、一時の同情を恋情と勘違いして、偽物の想いを返すことは真摯に香花を想ってくれる彼にとっても失礼だし、きっと不幸な結末を招いたに違いない。
ひとめ逢ったその瞬間から、恋に落ちてしまうことは、ままある。もしかしたら、彩景は心底から光王を慕っているのかもしれないけれど、何故か、先刻のあの呟きは、光王への恋心というよりは和真へ向けられた言葉であり、亡き人への想いのように思えてならなかった。
それとも、香花がそう思いたいから、彩景の言葉を自分の都合の良いように解釈しているだけ? 彩景が慕っているのは光王ではなく和真だと思えば、香花自身が光王を喪わずに済むからなのだろうか。
香花は深い息を吐き出し、その場に力尽きたように座り込んだ。今はもう冬珊瑚の実も眼に入らない。彼女は両脚を抱えて座り、膝に顔を押しつけて声を殺してすすり泣いた。
その四半刻後、香花は妙鈴の居室にいた。
― 一体、何をしにきたのだ?
妙鈴の憮然とした顔には、はっきりと書いてある。
いつもなら、すぐにうつむいて引き返す香花だが、今日は違った。
「お義母(オモニ)上」
覚悟の色を宿した眼を向けた香花を、妙鈴はどこか警戒するような顔で見返してくる。一体、成り上がり者の小娘が何を言い出すのかと構えているのがありありと判る。
「私は光王の母などではない。ましてや、そなたのような下賤の者に母と呼ばれる憶えはないわ。それゆえ、今後、この私を母とは呼ぶな、穢らわしい。第一、私はそなたを我が家の嫁としては認めてはおらぬ」
刹那、香花の瞳が妙鈴を射るように見開かれた。
「私と光王はちゃんと婚礼も挙げました。たくさんの村の人たちに祝福して認めて貰ったんです」
「フン、そのようなものがどうしたというのだ、庶民には庶民の暮らしがあり、その中での決め事があるように、両班の世界には両班の決まりやならわしがある。幾ら村人たちの前で婚礼を挙げたからとて、そのような結婚は所詮、かりそめのものにすぎぬ。賤しい者同士の決め事など、この世界では通用せぬと、そなたも仮にも成家の跡継の側妾であれば、よく心得ておくが良い」
「―そんな、酷い」
香花の眼に大粒の涙が溢れた。だが、こんな人の前では絶対に涙を見せたくない。
香花は滲んでくる涙を懸命に堪(こら)えた。
それでは、この人は、あの婚礼が全く何の意味も持たないものだとでも言うのか!
秋桜が一面に野を彩る中、村人総出で祝ってくれた婚礼の行われた日が甦る。わざわざ村人の尊崇を集める村長自らが音頭を取り、媒酌を務めてくれた。村人皆がそれぞれ酒やご馳走を持ち寄り、呑めや歌えやで盛り上がった披露の宴。
〝幸せにね〟と、耳許で涙ぐんで囁いてくれた隣家の扑夫人。
何もかもが手作りの、簡素だけれど、心温まる式だった。その皆の善意を、厚意までをも、この人は真っ向から否定するというのか。
―こんな綺麗な花嫁衣装は見たことはない。さぞ高かったんだろうねえ。
村の女たち誰もが羨望の声を上げて眺めた婚礼衣装は、香花が手ずから縫ったものだ。そして、それを仕立てた布は、香花にいつも仕立物の内職を斡旋してくれたグムチョンからの結婚祝として贈られたものだ。
恐らくは両班の令嬢であれば、普段着にしかならないようなそれも、村の娘たちにとっては憧れの晴れ着だ。
香花は毅然として顔を上げた。
「奥さまはお気の毒な方ですね」
「そなた―、なっ、何を言うのだ」
突如として反撃に出た香花に、妙鈴は気圧されたようである。
香花はうっすら微笑みさえ、その面に浮かべていた。
「確かに、私たちの挙げた婚礼は奥さまからご覧になれば、ままごとのようなもの、取るに足らないものかもしれません。でも、都から遠く離れた鄙の村人たちにとっては、この上なく心のこもった豪勢な式だったのです。奥さま、物の価値など、考え方一つでどうでも変わるものではございませんか? 華美贅沢に価値を見出そうとするなら、貧しい民は罪深く賤しい人種となり、また、裏腹に質素倹約を基準にするなら、ご馳走を食べ身を綺羅で飾るは無意味な、ただの驕りになりましょう。この場合、享楽に耽る両班の方々の方が罪深いということになります」
妙鈴は口をあんぐりと開けたまま、物も言えないでいる。
香花は淡々と続けた。
「ただ、私は思うのです。たとえ身に纏うものが襤褸切れであろうと、絹であろうと、最も大切なのは、その人の心の持ち様ではなかろうかと。どれほど着飾ってみても、その人の考え方そのものが歪んでいては意味がありません。逆に、いかに貧しくとも、心を常に正しく保ち人を思いやる心があれば、その人は真に優れた人といえるのではないでしょうか」
その時、妙鈴の胸に去来したものは何だったのか―。
「それが、何ゆえ、私が気の毒なということになるのだッ」
ヒステリックな声を上げた妙鈴を、香花は静かな瞳で見据える。
「人らしい心をお持ちにならない方はどれほど美しく装われようと、意味がないと先ほども申し上げました。私が奥さまをお気の毒だと申し上げたのは、それゆえです」
香花は言うだけ言うと、頭を下げ、来たときと同じように静かに室を出ていった。
「なっ、何という小生意気な女か! あのような女、尚更、成家の嫁として認めるわけにはゆかぬ。ええい、思い出すだに、腹の立つ」
妙鈴は紅で染めた指先を苛々と癇性に噛む。苛立ったときの癖なのだ。
彼女の脳裡に、ひと月前の出来事がまざまざと浮かんだ。
―義母上、人の価値とは果たして貴賤の別だけで決められるものでしょうか? たとえ身は綺羅を纏い、数え切れぬほどの玉で身を飾り立てたとて、心賤しき人はどこにでもいるものです。いや、むしろ、中身のない、つまらない人間だからこそ、外見に拘り必要以上に見栄を張ろうとするのやもしれません。裏腹に、襤褸を纏うその日暮らしの民の中にも、心ある者はおります。私は、そういった者の方こそが真の人間といえるのではないかと常々、考えております。
妙鈴は爪を噛みながら、あまりの悔しさに歯噛みする。
あの下賤で生意気な小娘と憎い女の息子は、口を揃えて同じことを言う。人の価値は貴賤の別で決まるのではなく、心の持ち様で決まるのだと。
―人の価値というものは身分で決まるのではなく、心の持ち様で決まると申し上げているのでございます。
ひと月前、光王が放ったあのひと言と同じ科白を下賤なあの娘はたった今、口にしたのだ。
「馬鹿な、そのようなことがあるはずもない。この世で最も敬われるべきなのは国王殿下を頂き、殿下に忠誠をお誓いする両班ではないか。愚かな民に何が判るというのだ、人の価値が心の持ち様で決まるなどとは、所詮、愚かな民の言いぐさよ」
吐いて棄てるように言い、妙鈴はまた腹立たしげに爪を噛んだ。
涙が後から後から堰を切ったように溢れてくる。
香花は妙鈴の部屋を辞去した後、例の井戸端にいた。泣くだけ泣いた後は、しばらくボウとあらぬ方を見つめていた。
今日も冬珊瑚の実は艶やかな実をたくさんつけている。香花はどこか虚ろな瞳で鮮やかな橙の実を眺めてから、のろのろと立ち上がり、井戸の傍に行った。井桁に手をかけて、中を覗き込んでみる。
と、ふと女中仲間たちが話していたのを思い出した。
何代か前、やはり成家に仕えていた若い女中が当主に手籠めにされた。彼女には互いに慕い合い、将来を誓い合った男がいた。女は男に申し訳ないと辱められた我が身を恥じ、自ら井戸に身を投げてしまう。丁度、その夜は満月だった。
以来、満月が輝く夜には、夜な夜な、その井戸から女のすすり泣きが聞こえてくる。泣き声が聞こえてくるときは、どういうわけか、蒼い蝶がひらひらと井戸の周囲を飛んでいるとか。
その話はどこの屋敷にでもありがちな怪談ではあったが、若い女中たちは声を潜めては興奮気味に話し合っていた。