連載256回 韓流時代小説 罠wana*秘された王子と麗しの姫
君に、出逢えた奇跡。俺は、この愛を貫いてみせる~
第二部 第四話「扶郎花」
名曲「荒城渡」からインスピレーションを得た最終話(ただし、本作の内容は「陳情令」との関連はなく、あくまでも、曲のイメージを作者なりに物語りで表現したものです)
チュソンとジアンを見舞う新たな試練とは?
哀しい別離を経て、二人が見つけた明日への「希望」とは何なのかー。
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誇り高いヨンオクのことだ、或いはそれも有り得る、息子とはいえ、奴婢となった今の有様を知られたくないのかとジアンも思ったのだがー。
と、チュソンが淡く微笑った。
「いつもはそなたに〝あなた〟と呼ばれると天にも昇る心地になるのに、今日ばかりは、そうもゆかないようだ」
ジアンもまたひそやかに笑った。
「当然です、あれだけのことをお聞きになったばかりなんですもの」
突如、チュソンが怒鳴った。
「あれだけのこと? 知った顔で知ったような口をきくな! そなたに何が判る!」
チュソンがジアンに襲いかかった。床に押し倒され、体重をかけてのしかかられる。
チュソンが顔の両脇に両手をついた。彼の黒瞳は哀しみに揺れていた。
「母上は、何の情も抱いていない男に良いようにされたんだぞ。こうして押し倒され、一切の抵抗もできず、使道の一夜の慰みものにされた! 挙げ句、身籠もっただって? そんなことがあって良いのかー」
ジアンは痛ましい想いで良人を見上げた。常とは違う凶暴さを纏った彼を怖いとは微塵も思わなかった。ただひたすら、哀しかった。
更に、ヨンオクがこうして男に押し倒されたときに味わったであろう苦痛と恥辱を思えば、いっそう哀しみとやるせなさは深まった。
ジアンは女人ではないけれど、この外見に惑わされ、あわや手込めにされかけたことは少なからずある。ましてや、本物の女で実際に辱められたとなれば、誇り高い義母であっただけに、いかほどの屈辱を味わったことか。
その夜、生命を絶ったのがヨンオクだったとしても、何の不思議もなかった。
尖った声で言い捨て、チュソンが荒々しくジアンの身につけた上衣の前紐を解いた。彼がこれから何をしようとしているかは明らかだ。
だが、ジアンは静かな声音で言った。
「私なら構いませんから」
ジアンはチュソンを心から愛している、大切に思っている。心の通っていない男ではない。今、自分の身体を差し出すことで、チュソンの哀しみと絶望が少しでもやわらぐなら構わないと思った。チュソンはいつも労りを持って抱いてくれるけれど、今夜、どれだけ酷い抱き方をされても耐えようと考えたのだ。
ジアンが眼を瞑った。直後、のしかかった重みが急に消え、ジアンは戸惑いつつ眼を開く。
チュソンが胡座をかき、やるせなさげに見つめていた。
「済まない」
これまで見たことがないほど、打ちひしがれた良人の姿にジアンの心は痛んだ。一年前、やはり執事がヨンオクが亡くなったと知らせたときより、今のチュソンは傷ついているように見えた。
やはり、息子にとって母親が男に辱められ、あまつさえ妊娠した事実は耐えがたいものなのだ。
チュソンが弱々しくかぶりを振る。
「私は一体、何をしているのだろうな。黄執事は母上の無事を知らせてくれたのに、あんな乱暴なふるまいをしてしまった。何の罪もないそなたにまで八つ当たりのようなことを」
言葉が途切れ、チュソンはクッと歯を噛みしめ、嗚咽を堪えた。
ジアンにはチュソンの胸中が手に取るように判った。誰に何の罪もないと理解はしていても、やるせない宿命を呪いたくなる。何故、どうしてと天に向かい大声で叫びたくなる。
かつてチュソンと出会うまで、ジアンもそうだったから。自分ではどうしようもない定めを与えた天に怒りをぶつけたくなるのは再々だった。
しばらくの間、チュソンの低いすすり泣きだけがしじまに響いた。ジアンは黙って彼が泣き止むまで側にいた。昔、ジアンが抱えてきた悩みをチュソンが黙って聞き、ジアンが泣き止むまで辛抱強く抱きしめていてくれたように。
四半刻余りが経過した頃、既に仕舞屋の外を宵闇が取り巻いていた。空には星たちが瞬き始めているだろうが、今夜、チュソンの瞳は何もない闇夜しか映さないだろう。それほどに彼の絶望と嘆きは深いのだ。
ジアンは泣き止んだチュソンをそっと引き寄せ、細い両手で抱きしめた。しばらくは赤児をあやすように、優しい手つきで広い背中を撫で続けた。
チュソンはかなり長い間、されるがままにジアンの懐に顔を埋(うず)めていた。顔を離した時、眼は赤く充血していたけれど、彼はもう泣いてはいなかった。
チュソンが真っすぐな視線を向けている。それだけで、良人が重大な決意をしたのだと悟った。夫婦となってほぼ二年、相手の眼や表情を見れば気持ちも通じるようになっている。
「何か私にお話しになりたいことがあるのでは」
チュソンが切り出しやすいように言うと、チュソンが眉を下げた。
「まったく、そなたにはいつも負ける」
苦笑めいた顔から、直に笑いは消えた。
「母上に逢いにゆこうと思う」
ジアンは深く頷いた。
「当然です。お元気でおられると知ったからには、行かなければ」
チュソンは少し言葉を濁した。
「明日から私はしばらく留守にするが、一人で大丈夫か?」
中身は男だが、見かけは華奢な若い女人、しかも極上の美人と来ている。タナン村にもジアンに懸想をしている若い男は少なくはない。良人持ちだから、あからさまに迫ったりはしないけれど、事あればジアンに思わせぶりに近づく輩の数とそれぞれの顔まで、記憶力の良いチュソンは思い出せる。
チュソンが留守だと知れば、夜這いを仕掛けてくる不埒者がいないとも限らない。
ジアンは剣の達人だ。剣を持たせれば、チュソンなど及ばないほどの剣豪でもある。が、腕力だけでいえば、男にしては細身で、チュソンは難なく組み伏せられる。つまり、丸腰のジアンは極めて非力な弱々しい存在だということだ。