連載255回 韓流時代小説 罠wana*秘された王子と麗しの姫
君に、出逢えた奇跡。俺は、この愛を貫いてみせる~
第二部 第四話「扶郎花」
名曲「荒城渡」からインスピレーションを得た最終話(ただし、本作の内容は「陳情令」との関連はなく、あくまでも、曲のイメージを作者なりに物語りで表現したものです)
チュソンとジアンを見舞う新たな試練とは?
哀しい別離を経て、二人が見つけた明日への「希望」とは何なのかー。
誇り高いヨンオクのことだ、或いはそれも有り得る、息子とはいえ、奴婢となった今の有様を知られたくないのかとジアンも思ったのだがー。
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次の瞬間、執事は驚愕の事実を口にした。
「むろん、それもあるにはあるとは思いますが」
執事の物言いは、ひどく曖昧だ。チュソンの声音に苛立ちが混じった。
「歯に衣を着せた物言いはするな。母上が官奴になったのは、とっくに知っている。今になって少々のことを知ったとて愕きはしない。覚悟はできている。母上はそこまで酷(ひど)いご様子だったか?」
それでもなお、執事は言いあぐねている。
ジアンが包み込んでいるチュソンの片手にグッと力が入ったかと思うと、気がつけば彼は執事に詰め寄っていた。胸ぐらを掴み上げ、凄むように言う。
「言え、母上はどんなに酷い有様だった」
「ぼ、坊ちゃま」
さして気の強くない執事は顔面蒼白で、まるで見てはならないものを見たかのように震えている。
そう、彼ははるか南方の州役場でもまた、見てはならない、かつての主家の奥方の〝今〟を見てしまったに相違ない。
戦は、政争は人を根底から変えてしまう。心優しい男を無慈悲な獣に。貞淑な女を夜ごと、身体をひさぐ妓生のように。
チュソンが執事の胸元を締め上げる。執事の顔が苦しげに歪み、ジアンは最早、黙ってはいられなかった。
「旦那さま、何をなさっているのです、気を確かにお持ちなさいませ」
ー気の毒な執事をこの場で絞め殺すおつもりですか?
耳許で囁くと、チュソンの手が大きく揺れた。ふいに拘束していた力が抜け、執事の身体は床に崩れ落ちた。
ジアンは咄嗟に執事に駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
執事は辛うじて身を起こし、コホコホと烈しく噎せている。本当に冗談ではなく、あと少し止めるのが遅れていれば、執事はチュソンに絞め殺されていたかもしれないと思うと、冷や汗が流れた。
地面を這う虫でさえ、踏みつぶすのをためらうような優しい男だ。今のチュソンはあまりに烈しい衝撃に、普段の彼らしさを失ってしまっている。
チュソンが茫然とひろげた自分の手のひらを見つめた。
「私は、今、何を」
ジアンは幼子に言い聞かせるような口調で言った。
「旦那さまはお疲れのようですから、ここは私が代わりにお話をお聞きしましょうか」
少しく後、チュソンは緩慢に首を振った。
「いや、私の母のことだ。私自身が直接訊きたい」
「大丈夫ですか?」
再度問えば、今度はチュソンは、しっかと頷いた。ジアンはまた良人の傍らに控えめに寄り添い、執事からの話を聞く体勢になった。
チュソンは乱れて額にかかった前髪を煩そうに払い、自らを恥じるかのように言った。
「済まない。わざわざ回り道をしてまで訪ねてきてくれたのに、申し訳ないことをしてしまった」
執事はゆっくりと首を振った。
「滅相もありません。大切なお母上さまのことです。坊ちゃまのお腹立ちは当然だと理解しています」
執事はそれでもまだ、チュソンをわずかに警戒するかのように距離を置き、ひと息に言った。
「奥さまはご懐妊されておられました」
「ー!!」
もしかしたら、ヨンオクが生きていると聞かされたときより、後の方が与えられた衝撃ははるかに大きかったかもしれない。それほどの打撃だった。
執事が辞した後、ガランとした室は救いがたい沈黙で満たされた。ジアンもチュソンも言葉さえなく、ただ膝をつき合わせて座り込んでいるだけだ。
チュソンは、あまりの展開に憔悴しきっている。チュソンに代わり、ジアンが執事を表まで送った。芝垣に取り付けた枝折り戸まで見送ったジアンに、執事はそれでも気丈に言った。
ーどうか坊ちゃまをよろしくお願いします。
皆までは言わずに執事は去ったけれど、忠実な使用人が言いたいことは正しくジアンに伝わっていた。
ーあの分では、坊ちゃまこそがご自害されかねません。
ジアンは遠路はるばる立ち寄ってヨンオクの近況を伝えてくれたことに対し、丁重に礼を述べて執事を送った。
ー話しにくいことを伝えて頂き、ありがとうございました。
ジアンの見るところ、ヨンオクの死が誤ってチュソンに伝えられたのは、執事の勘違いというよりは、そもそも誤報が執事にそのまま伝わってしまった可能性が高いと思われた。同じ夜、二人の女が役人の伽をさせられた。どちらもが元両班の奥方から官奴となった美しい女だった。
片方が町家出身であったというならともかく、どちらもが同じ両班の奥方であったというところから混同されてしまったのだろう。
ー両班の奥方で官奴に落とされた女が役人に召し上げられた夜、自害して果てた。
それだけでは、どちらが亡くなったのか知れたものではない。もしかしたら、その短い情報だけで執事がヨンオクだと思い込んだ可能性もあるし、誤情報をもたらした執事を責めるいわれはなかった。
ジアンは気遣わしげに良人を見守った。執事を見送ってから、ずっとこの状態が続いている。執事に言われなくても、この有り様では、チュソンから眼を離せたものではない。
そろそろ長い春の陽も落ちる刻限である。ジアンは静かに立ち上がり、燭台に火を入れた。途端にほのかな明かりが薄暗い室内をぼんやりと照らし出した。
ジアンは控えめに問うた。
「あなた(ヨボ)、大丈夫ですか?」