時代小説 絶唱~身代わり姫の恋~危うい恋のゆきつく所はーまた逢いたいと彼に囁かれ、断れなかった私 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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時代小説 絶唱~身代わり姫の恋~

 源鞠子ー通称「竹御所」は鎌倉幕府二代将軍頼家の息女である。

 16歳年下の四代将軍頼経と結婚した。

 親子ほどの年の差夫婦ながら、竹御所と頼経の夫婦仲は極めて良好で、鞠子はやがて16歳年下の夫の子を懐妊する。当時、妻の鞠子は32歳、夫頼経は16歳。若い夫は妻の妊娠を殊の外歓んだといわれている。しかし、初産・高齢出産に加え、蒲柳の質で身体の弱かった鞠子は難産に耐えられなかった。鎌倉御家人たちに惜しまれながら亡くなった鞠子は、また頼朝の血を引く最後の源氏であった。

 

 本作は、激動の時代、源氏一族最後の人として生きた源鞠子の数奇な生涯を私なりに描いたものになります。

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 千種はどうしても言えなかった。本当はあなたが考えているよりもずっと年上の、とうに盛りを過ぎた女なのですとは。千種は小柄で童顔ゆえ、人によっては随分と若く見られることは知っている。彼が幸運な誤解をしてくれたのを良いことに、千種は年齢については黙っていることにした。
―せめて、夢ならば、嘘をついていても良いでしょう?
 千種は自分で自分に言い訳した。これは、いつか醒める夢、幸せな夢なのだ。紫の身代わりとなって将軍家に嫁いだ我が身が生まれて初めての恋をして、その好きになった男からも妻に望まれた。
 こんな幸せな夢があり得るだろうか? 
 そして、これが夢だと知りつつも、ずっと醒めないでいて欲しいと願う欲張りな自分もいる。
 今なら、そう今なら、自分の真の名を告げても構いはしないだろう。だって、これは幸せな夢の中の出来事で、この夢はいつか醒めるときが、終わりが来るのだから。
 千種は息を吸い込んだ。濃厚な潮の香りを胸一杯に吸い込む。
「千種と申します」
「―千種」
 彼は千種、千種と幾度も呟いた。何故なのか、大好きな男が自分の本当の名前を囁くだけで、こんなにも嬉しい。涙が溢れくるくらい幸せだ。
「良き名だ。千種とは、恐らく、たくさんの花を意味するはず、様々な表情を見せてくれるそなたには、ふさわしい」
「たくさんの表情?」
「泣いたり笑ったり怒ったり、歓んだり、忙しい。だが、私はそなたの―千種のどの表情も凄く好きだ」
 好きなひとに率直に好きだと言われることが、こんなにも嬉しいなんて知らなかった。じんわりと温かな雫が眼に盛り上がり、もちろん、彼は大いに狼狽えた。
「また泣いている! 今度は何がいけなかったのだ。ええい、この頭は飾りものか。何故、私は好いたおなごを歓ばせることすらできないのか」
 また髪をかきむしっている彼を見て、千種は涙を零しながらも笑った。
「何だ、やっぱり泣いたり笑ったりと忙しいな、千種は」
 彼もまた困ったような嬉しいような奇妙な表情で千種を見ていた。やがて、次の瞬間、二人を取り囲む刻がピタリと止まった。鳴り響いていた潮騒はふっとかき消えた。
 ふと我に返った瞬間、千種は彼の腕の中にいた。もののふらしい、鍛え上げた彼の身体はもう少年ものではなく、立派な大人のものだった。
 静かに唇が降りてくる。しんと冷たいようでいて、ほのかな危うい熱を帯びている彼の唇を受け止めながら、千種は幸せな夢の中を漂っていた。
―今だけは、せめて夢を見させて。自分ではない他の人間として生きるしかない私に仏さま、この一瞬だけでも〝千種〟として恋をさせて下さい。生まれて初めて好きになった男の腕の中でだけは、私は元どおりの河越康正の娘千種としていたいのです。
 将軍という至高の位にある良人を持ちながら、若い男と恋に落ちる。それがどれだけ罪深いことなのか、千種はいやというほど理解していた。
 そして、彼にも妻がいるという、親が決めた形だけの妻。彼と彼の妻はまるで、千種と頼経のようだと思った。頼経と千種、彼と貌も見たことのない彼の妻。まるで合わせ鏡を見るかのように、自分たちふた組の夫婦は似ている。
 どちらも良人と妻でありながら、互いに関心を持たず、一生を無為に過ごすさだめなのだ。頼経の妻として生きる自分も、彼の妻として生きるしかない女も、どちらもが哀れな境涯としかいえない。
 大好きだから、千種は最後に断れなかった。彼から〝また今度、必ず逢えるね?〟と、期待に満ちた貌で囁かれた時、つい頷いてしまった。
 その約束が彼との危うい恋の始まりになる―はずだった。だが、運命はまたしても思いもかけない場所へと千種を連れてゆく。そのことが千種に知らされるまでには、まだあと少しの刻を待たねばならない。

 逢瀬と初夜の真実

 その日、鎌倉の空はからりと晴れ上がり、気持ちの良い初夏の一日が始まろうとしていた。今日という日はまだ生まれたての赤児のようで、市(いち)が賑わい始めるには少し時間がある。
 それでも、気の早い人々は目抜き通りの両端に軒を連ねた露店で様々な品を物色している。声高に野菜を売る男、古着を並べて、これから商いをしようかという女。そんな人々の姿を、千種は少し離れた場所に佇み、興味深く眺めていた。
 あの不思議な男―蛸入道から千種を助けてくれた若者と出逢ってから十日を経ている。
―また今度、必ず逢えるね?
 千種は誘惑に満ちたあの誘いをどうしても断ることはできなかった。
 敢えて名前は訊ねることはしなかったけれど、立ち居振る舞い、身なりから相当の地位にある武士だとは察せられた。幕府に拘わる人であることは確実で、そのような男においそれと名を訊かない方が賢明だと判っていた。
 見るとはなしに市の雑踏や賑わいを見ていると、背後からそっと眼隠しをされた。
「来てくれたんだな」
 二度めに逢うひとで、まだ何も知らないのに、ひどく懐かしい想いのするひと。千種もまたそっと眼を覆った大きな手のひらに自分の手を重ねた。重なり合った手のひらから伝わる温もりがとても愛おしいものに思える。
「はい、ちゃんと参りました」
 明るい声音で応えると、すぐに目隠しが外された。千種はくるりと回り、逢いたくて堪らなかった男を見上げた。
―我らが初めて出逢った場所で。
 十日前、彼はそう告げて去っていった。時間は朝の早い中とだけ言われていたので、千種は自分でもいささか滑稽だと思えるほど早くに御所を抜け出してきたのである。
 万が一、時間に遅れて彼に逢えなかったときの落胆を思えば、待つ時間など何ほどのものでもない。
 千種は今日の自分が彼にどのように見えるか、心配だった。御所を出る前にも、たくさんの小袖を居間中に並べて、仲の良い若い侍女と一緒に、あれでもないこれでもないと選んだのだ。