韓流時代小説 月の姫【後編】~王を導く娘~
(第六話)
本作は、「復讐から始まる恋は哀しく」の姉妹編。
前作で淑媛ユン氏を一途に慕った幼い王子燕海君が見目麗しい美青年に成長して再登場します。
今回は、この燕海君が主人公です。
廃妃ユン氏の悲劇から14年後、新たな復讐劇の幕が上がるー。
哀しみの王宮に、再び血の嵐が吹き荒れるのか?
登場人物 崔明華(貞哲王后)
(恒娥)チェ・ミョンファ。またの名をハンア。町の観相師、18歳。あらゆる相談に乗る
が恋愛相談だけは大の苦手なので、断っている。理由は、まだ自分自身が恋をしたことも
なく、奥手だから。
燕海君 24歳の国王。後宮女官たちの憧れの的だが、既に16人もの妃がいる。
前王成祖の甥(異母妹の息子)。廃妃ユン氏(ユン・ソファ)を幼時から一途に慕い、大王大
妃(前作では大妃)を憎んでいる。臣下たちからは「女好きの馬鹿王」とひそかに呼ばれる。
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☆本作には観相が登場しますが、すべてはフィクションであり、観相学とは関係のないものです。本当の観相学とはすべて無関係ですので、ご理解お願いします。
前回までのお話はコチラからどうぞ
明け方、明華は夢を見た。
淡い緑色の龍が天空を泳いでいる。その龍には確かな既視感があった。それもそのはず、かつて明華が初めてヨンを観相した日、観たのと同じ龍だったからだ。
薄緑の鱗に一面覆われた雄々しい身体は、白銀に輝いている。賢しげな丸い瞳は理知的で穏やかな光を帯び、透き通った蒼に染まっている。天空はどこから放たれているのか七色の光が差しており、それが龍を更に神々しく見せている。
だが、龍の瞳を見た刹那、明華はハッとした。龍が切なげなまなざしで淋しそうに一点を見つめている。そこに何があるのかまでは判らない。
ー何をそんなに哀しげに見つめているの?
呼びかけると、龍が明華を見たーような気がした。
一瞬、龍の蒼の瞳に先刻、見たばかりの想い人の瞳が重なった。途端に引き絞られるような心の痛みが明華にまで流れ込んできた。
明華は悟った。今、自分はあの龍の心の痛みを共有しているのだと。
一体、何がして龍をあそこまで哀しませ悩ませるのだろうか。
古来、帝王は聖獣の化身といわれ、我が朝鮮でも国王は龍の化身と伝えられてきた。
あの龍が国王であるヨンのもう一つの姿であるとは、おおよそ見当がついている。初めて出逢った日、町中で彼を観相して、あの龍が片眼を射貫かれて血の涙を流すところを観た。次に出逢った風灯祭の夜は、あの龍が何本もの矢を射かけられ、満身創痍で落下する惨劇を観た。
だからこそ、明華は彼がそう遠くない将来、〝廃主〟となり、その名が歴史に暗君として刻まれることを予見したのだ。そして、明華は観相師としての禁忌を犯し、彼の運命の流れを変えた。彼は今や建国の祖太祖の再来と謳われる賢君として、国中から尊崇を受けている。
今、こうしてまた、あの龍を観たというその意味は? 明華が〝浄心の術〟で大王大妃を変心させたことにより、ヨンの君主としての未来は良きものに変わったのではなかったか? またしても、ヨンに災難が降りかかるという暗示ではないだろうか。
混乱している明華の手前、ヒュンと唸りを上げて飛来してきたものがあった。明華は驚愕して顔を上げる。
ふと緑龍の方を見た瞬間、明華は悲鳴を上げた。優しげな龍の身体が長剣に深々と刺し貫かれている。
可哀想に、龍の身体からはどくどくと血が流れ、彼は苦しげにもんどりうっている。
どこまでも不吉で現実的な夢だ。どう考えても、凶兆、愛する男の未来に禍がもたらされるという不穏な知らせとしか思えなかった。
傷ついた龍の身体が揺らぎ始める。
ー待って、行かないで。そのままでは死んでしまう!
徐々に薄くなる龍を追いかけるように一歩を踏み出すものの、両脚がその場に縫い止められたように動かない。
その間に、緑の龍はいつしか完全に消えてしまった。
ーああ、行ってしまった。
傷ついたまま行かせてしまったことに酷く自分の無力さを感じたその時、フッと意識が覚醒した。
何という禍々しい夢を見てしまったのか。自分を今になって責めてみたところで、どうにもならない。
六月上旬の早朝、大気はまだひんやりとしているにも拘わらず、寝覚めの身体は汗まみれだった。
慌てて隣を見やると、すぐ傍らでヨンが規則正しい寝息を立てている。思えば知り合ってもう三年にもなろうというのに、こうして一夜を一緒に過ごしたのは初めてなのだ。
少なくとも、彼の方は今夜に限っては悪夢を見ることはなかったようなのは救いだ。
胸騒ぎがしてならない。彼に出逢ってまもなく立て続けに観た二つの不吉な映像より、今度の夢は更に禍々しいものを感じる。
一つだけ明確に判るのは、彼の身に未曾有の危険が迫っているということだ。
明華の耳奥で、彼が昨夜、囁いた言葉が蘇る。
ーそなたの信頼を裏切らないように、私もそなたを一生涯かけて守ってゆくよ。
彼が私を守ると誓ってくれたように、私もどんなことがあったとしても、彼を守る。
二年前、心ならずも明華は彼の前から去った。ひとえに彼の王として進む道を思ってのことだったし、けして彼を嫌いになったわけではなかった。それでも、明華が一方的に別離を切り出したことで、彼はどれほど傷つき苦しんだだろう。
二年ぶりに再会したときの彼の憔悴ぶりが何より物語っていた。
彼を哀しませ苦しませた自分にできるのは、せめて彼にこれからは二度と同じ想いをさせないということだけ。
三年前、母の遺言に背き、観相師としての禁忌を犯し、術によりヨンの未来を変えた。もう二度と同じことは繰り返さないと心に固く誓ったけれど、もしかしたら、また同じことになるかもしれない。
いいえ、と、明華は挑むような視線を宙に向ける。
たとえ幾千回でも、愛する男のためならば、私は禁忌を犯すだろう。ヨンを傷つけようとするものは、誰であろうと許さない。自分の持てる能力(ちから)すべてをもってしても、彼を守ってみせる。
明華はゆっくりと上半身を起こし、寝台に散らばっている下着や衣服を身につけた。初めて花びらを散らしたばかりの身体は、少し動かしただけでも節々が痛む。殊に両脚の間の秘められた場所には今なお鈍い痛みが残っている。
それでも、悔いはなかった。こんなにも早くヨンと結ばれるとは明華自身、考えもしていなかったけれど、愛する男に求められ、自らも望んで抱かれたのだ。
これから先、自分たちがどうなるのかは判らない。明華にはいまだに彼の妻、つまり王妃として生きる覚悟はできていない。現状、結ばれたからといって、ヨンと我が身のゆく手に幸福が待っているとは言いがたい。
それでも構いはしない。たとい下町の観相師として一生を過ごすにせよ、自分はもう二度と後戻りはしないだろう。彼の側を離れもしない。
宮殿と下町、離れ離れに暮らしていても、時折来てくれる彼を待ち、日がな自分を必要とする依頼者の観相をする。むしろ、それこそが自分の望んでいる生き方なのかもしれない。ずっと彼の側にいられなくても、たまにでも逢えるなら、それで十分だ。