皆様、こんにちは。
昨日から今日にかけて、季節が一足飛びに変わってしまったようですね。
気温が十度近く下がり、もう晩秋という感じになりました。
午後五時過ぎの現在も「こんにちは」より「こんばんは」のご挨拶がふさわしいようです、、、
何か物悲しい晩秋の雰囲気です。
私も昨日までは半袖でしたが、今日は流石に長袖になりました。
最近は気候が従来より一ヶ月近くズレこんだ感がありますので、十月半ばくらいまでは
半袖で平気です。
さて、ここから話が変わります。
私のライフワークである執筆活動において、殆どの作品が時代・歴史物です。
特に最近はあまり現代物を書いていません。
その中でも実在の人物を主人公にした作品は数少なく、一番新しいところでは
チャン・ヒビンをヒロインにした作品「炎の王妃」となります。
実在人物を描くときに一番気をつけているのは、
ー主人公をあまりに美化しすぎないこと。
ー主人公の気持ちや立場に寄り添う(自分自身が主人公と同じ立場に立ったときの
心情を考えてみる)こと。
です。
この二つ、一見すると相反するように思えるかもしれません。
二つ目の「主人公の気持ちに寄り添う」というのは、一歩間違えれば「主人公に肩入れする」
ことになってしまいます。
もちろん、その人を描くに当たって、作者自身がその人を「突き放して見たり」、「冷めた眼で見たり」
するのでは、良い作品はできないでしょう。
あくまでも、描こうとする対象である人物を暖かい眼で見ることは必要です。
ですが、主人公に「共感しようとする」あまり、妙に肩入れしすぎるのはナンセンスだと
私自身は考えています。
チャン・ヒビンは粛宗の側室から王妃にまで上りつめたのに、また側室に降格されたのは
あまりにも有名です。
その数奇な生涯はドラマティックともいわれ、たくさんのドラマ、小説、映画にも
取り上げられてきました。
チャンヒビンに限らず、どれだけ悪名高い人物だったとしても、描き方によっては
「善人」にも「悪人」にもなり得ます。
そこがノンフィクションの面白いところでもあります。
ただ、私としてはチャン・ヒビンの生涯を単なる「悲劇」だけにも、また「本当は善人だった」説にも
したくはありませんでした。
根っからの善人なら、仁顕王妃を呪うことなんかしなかったでしょうし、
朝鮮三代妖婦の一人として歴史に残ることもなかったでしょう。
私が考えたチャンヒビン像は、「ごく普通の女性」でした。
けして「性善説」を地でゆくような善人ではなく、状況次第では善人にも悪人にもなり得る、
人間なら誰でもが持つ弱さを持った一人のごく平凡な女性でした。
そんなごくごく普通の女の子がたまたま出逢って恋した男性が王様だった。
そこから彼女の苦難が始まったーという風に理解しました。
だからこそ、粛宗が愛した他の女性たちの存在について嫉妬もし、悩みもし
「良心」との葛藤を繰り返しながらも、最後には嫉妬心に飲まれ
悪事に手を染めたという設定にしたのです。
もちろん、これは私なりの理解にすぎません。
しかし、恐らくは本当のチャン・オクチョンという女性も最初は、そんなごく普通の女性だった
のではないかと思われてなりません。
根っからの悪女であれば、「性悪説」のお手本のような女性なのかもしれませんが、
世の中、そういう人は皆無とはいえませんが、少ないと思います。
同様に、「性善説」をそのまま体現したような天女のような女性もあまりいないと思うのです。
そこから、チャン・ヒビンを「どこにでもいる、ごく普通の女性」として
描こうと考えました。
彼女の生涯では節目となる出来事が幾つかりありますが、
その時々を描くに当たったては、できるだけ自分がそういう状況下に置かれたときを
想像しながら、彼女の気持ちに寄り添って描こうと努めました。
そうして四ヶ月かけて完成したのが「炎の王妃」です。
滅多に実在人物を描かない私ですが、チャン・オクチョンという女性は
どうしても一度は描いてみたいと長年、願ってきたヒロインでもありました。