韓流時代小説 夜に微睡む蓮~王を導く娘~
(第三話)
本作は、「復讐から始まる恋は哀しく」の姉妹編。
前作で淑媛ユン氏を一途に慕った幼い王子燕海君が見目麗しい美青年に成長して再登場します。
今回は、この燕海君が主人公です。
廃妃ユン氏の悲劇から14年後、新たな復讐劇の幕が上がるー。
哀しみの王宮に、再び血の嵐が吹き荒れるのか?
登場人物 崔明華(恒娥)チェ・ミョンファ。またの名をハンア。町の観相師、15歳。あらゆる相談に乗る
が恋愛相談だけは大の苦手なので、断っている。理由は、まだ自分自身が恋をしたことも
なく、奥手だから。
燕海君 21歳の国王。後宮女官たちの憧れの的だが、既に16人もの妃がいる。
前王成祖の甥(異母妹の息子)。廃妃ユン氏(ユン・ソファ)を幼時から一途に慕い、大王大
妃(前作では大妃)を憎んでいる。臣下たちからは「女好きの馬鹿王」とひそかに呼ばれる。
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☆本作には観相が登場しますが、すべてはフィクションであり、観相学とは関係のないものです。本当の観相学とはすべて無関係ですので、ご理解お願いします。
「このまま口づけを続けていては、そなたを奪ってしまいそうだ。名残は惜しいが、この辺りで止めておこう」
ヨンが帰った後も、明華はまだ痺れたような感覚でボウと座り込んでいた。
流石にヨンが色事については手練れであるのは疑いようもない。少年の頃から、多くの女たちを相手にしてきただけはある。
彼は自分を裏切った妃を許そうとしているだけでなく、妃を守ろうとしている。
それは単に妃が元妻だからだろうか、それとも、妃への情愛がほんのわずかでも彼の中に残っているから?
どちらかなのかもしれないし、もしかしたら、両方なのかもしれない。多分、両方なのではないかと明華には思えてならなかった。
明華の眼にまた、うっすらと涙が滲んだ。
ヨンは彼の子の母となるのは明華だけだと言っている。それで十分なはずなのに、何故、涙が出るのだろう。
そう、判っている。明華はヨンに自分だけを見て欲しいのだ。彼のあの美しい瞳に映るのは十五人の妃ではなく我が身一人であって欲しいと願っている。
それはとても贅沢な望みだと判ってはいるけれど、それでもなお願ってしまう。
彼が自分ではない他の誰かを想っていると考えただけで、苦しくて切なくて息ができないほど辛い。
誰かを好きになるというのは幸せなはずなのに、どんどん彼を好きなればなるほど、明華の心は貪欲に醜くなる。彼の心に棲まう別の誰かを憎みたくなる、許せないと思ってしまう。
明華は自分の心のありようが怖かった。
これ以上、ヨンへの想いが深まった時、自分はどうなってしまうのか。
考えただけでも、叫び出しそうなくらい怖かった。
発覚
暗闇に頼りない明かりがフワフワと揺れている。
ここは広大な王宮の一角、丁度、王の女と呼ばれる美しき妃たちが棲まう場所、つまり後宮だ。
このような深夜に妃たちの棲まう後宮を堂々と闊歩できるのは美しき花園の主たる国王か、さもなければ内官しかいない。
そして、今、真っ暗な闇夜を一人、歩いているのは深緑の官服を着ているれきとした宦官である。深緑は宦官のお仕着せだ。
「ったく、良い加減にしてくれよって言うんだ。何で、こんな月もない夜に俺一人で夜回りしなきゃならないんだか」
小柄で丸顔な彼は二十三歳、小宦と呼ばれる見習い時代を数えれば、王宮仕えも十四年に渡る。童顔なので年より若く見えるが、これでも七年前に一人前の内官に昇格した中堅クラスだ。
融通がきかないのが玉に瑕ではあるが、真面目な勤務態度が評価されている。内官一同を統率する内侍府長は無理でも、どこかの部署のお偉いさんにくらいはせめて出世したいと願っている。
彼の実家は両班ではなく、商家だ。彼が子どもの頃はそれなりに繁盛していたが、いつしか家運は傾き、父は夜逃げするように出ていった。母の細腕だけで商いが成り立つはずもなく、彼は実家の窮状を救うために自ら望んで内官となった。
彼の下には弟妹が一人ずつおり、彼の犠牲のお陰で弟は私塾に通うこともでき、妹は人並みの嫁入り道具を持って分相応な家に嫁いだ。科挙に二度目にやっと受かった弟は、現在、最下級ではあるが役人をしている。
三つ下の弟は一昨年、妻を娶り、春先に初子が生まれたばかりだ。彼も出産祝いに訪れ、甥となる赤児を抱いた。
男として生きることを諦めた我が身には、たとえ妻帯しても子を持つことは許されない。内官も体裁のために結婚し、家門の存続のためには養子を取るのが通例だ。だが、結婚しても内官は妻に女としての幸せを与えてはやれない。
人はよく言う。
ー身体だけが夫婦の結びつきではない。
と。
だが、金の切れ目より何より、夫婦に大切なのは身体の相性だと言ってしまえば身も蓋もないだろうか。
形だけの結婚、名ばかりの妻。一時は彼も結婚して人並みの家庭を持つことを夢見たけれど、ある時期から結婚はすっぱりと諦めた。
仮に結婚したとしても、既に男でなくなった自分は妻を幸せにはできない。ゆえに、生涯独身を通し、養子には弟夫婦の子どもの誰かをもらい受けようと考えている。
自分の跡目は赤の他人ではなく、血の繋がった者に継がせたい。それくらいは望んでも我が儘は許されるはずだ。何しろ、彼は弟妹のために男として生きることを諦めたようなものなのだから。
彼ー内官は、ソン・ウォンギという。ウォンギはこの日、夜回り当番に当たっていた。むろん、夜回りは一人ではなく二人で行うものだ。しかし、その夜に限って、相方が菓子の食べ過ぎで腹を壊してしまった。
「情けないヤツだ。幾ら浮かれているからって、腹を壊すほど菓子を食べるとは」
ウォンギはぶつくさと呟いた。
彼の相方は彼より三つ下で、小宦時代からの友人でもある。その友人は最近、若い女官と恋愛中だ。昨日もその恋人からお手製の焼き菓子を贈られたという。彼もお裾分けだと貰い食べたが、確かになかなか美味しかった。
相方は歓んで箱一杯の菓子をすべて平らげてしまった。その挙げ句、今日の夕刻からずっと厠と居室の往復を繰り返している。
恋人がいるのを羨ましいとは思わないものの、浮かれて食べ過ぎで腹を壊せば、たちまち自分にもしわ寄せが来るではないか。止めて欲しい。
ウォンギは溜息をつき、立ち止まった。手にした提灯で周囲を照らしてみる。不気味な闇の底に沈み込んだ風景が束の間、ぼんやりとした明かりに浮かび上がった。
月明かりもない闇に眠る殿舎は、大きな魔物のように見えなくもない。鬱蒼と茂った樹木が重なり合い、殿舎の屋根に覆いかぶさるようにそびえている。
そういえば、と、彼は今更ながらに思い出した。
「ここら辺りは例の不遇なお妃の棲まいではなかったか」
廃妃ユン氏。今でも後宮どころか王宮中で禁句となっている名前である。
廃妃の名はユン・ソファという。現国王燕海君の先代成祖の側室であり、淑媛の位階を賜っていた。現王と違い、女人には淡泊であった成祖がただ一人、寵愛したという美しい寵姫だ。