韓流時代小説 寵愛【承恩】～100日間の花嫁～
第二部最終話 Moon Butterfly～月の軌跡～
前代未聞の「王妃の家出」！？
セリョンは一人娘の紅順王女を連れて翠翠楼に里帰りし
た。
そこで出逢った18歳の妓生メヒャンが何故か酷く哀しい瞳をしているのが気になる。
ー何とかして、あの可哀想な妓の力になりたい。
王妃になっても相変わらずのセリョンのお節介の虫が動き出してー。
人物紹介
チョン・セリョン（鄭世鈴）
妓房（遊廓）の看板娘。まだ幼い頃からセリョンを水揚げさせて欲しいと願う客が殺到するほどの美少女。外見を裏切るお転婆娘。明るく、落ち込んでも立ち直りの早い憎めない性格。
愼誠(シンソン)大君
英宗と貞慧王后との間の第一王子
陽誠(ヤンソン)大君
英宗と貞慧王后との間の第二王子
ホンスン公主（李紅順）
国王英宗と貞慧王后の間の第一王女
ムミョン（無名）
自らを「無名」（名無し）と名乗る謎の男。雪の降る冬の夜、深手を負っていた彼をセリョンが助ける陰のある美男なところから、翠翠楼の妓生（遊女）たちに絶大な人気を集める。隻眼ということになっているも、実は碧眼と黒目のふた色の瞳を持つ。
☆貞順大王大妃（シン・チェスン）
三代前の国王知宗の正室。王室の最長老であり、後宮の最高権力者。
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蒼玉（サファイア）のように深い蒼に染まった左眼も含めて、彼のすべてを愛している。こんなにも切ないくらい、あなたを愛している。
セリョンは、ついに本音を言った。
「だからこそ、私はあなたの傍にいてはいけないのよ」
「世継ぎが生まれないからか？」
セリョンは小さく頷いた。
「そんなのはたいしたことじゃないと幾ら言い聞かせても、そなたは理解しないんだな」
セリョンがキッとなった。
「たいしたことじゃないわけないでしょう。世継ぎの有無は国にとって重大問題よ」
「だから先ほども言った。次の王位は誰に継がせるかは考えた」
セリョンの声がまた湿った。
「私はあなたの息子に次の王になって欲しい」
ムミョンの右眼が煌めいた。
「なら簡単だ。そなたが息子を産めば良い」
「そんなに簡単ではないのよ」
「試してみなければ判らない」
ムミョンがセリョンを引き寄せる。まるで初めて見るかのように彼女を見つめた。
それから、確かめるように指で彼女の唇をなぞり、消えていなくなったりするのを怖れるかのように唇を重ねた。
「二度と俺の傍から離れないでくれ」
彼はセリョンの瞳に溜まった涙を唇で吸い取り、口づけ、身につけた衣装も取り去り、ありのままのセリョンを求めた。
ムミョンが彼女を身悶えさせ、ゆっくりと二つの身体を奥深い場所で繋げた。
伽耶琴の音がどこの座敷からか、かすかに聞こえてくる。誰かが舞っているのか、嫋々とした音色は次第に速く激しくなり、ついにはすべてのものを巻き込んで吹き荒れる嵐のように激しく鳴り響いた。
音色が高まる中、二人は明かりもつけぬ部屋であたかも舞踏音楽に合わせるかのようにもつれ合った。
ムミョンは一度達したのみでは止まらない。淫靡な感覚がよりセリョンの中の官能を高める。
彼が隈無く触れる肌という肌があたかも燃え上がるようだ。
その日、二人が体験したのは単なる性愛ではなかった。太古の昔から脈々と受け継がれたきた生命の交わり、魂の交歓、まさに愛の営みであった。
何かが変わったような気がするけれど、それが何なのか、まだ判らない。
ー彼が私に欲望を抱いている。
ムミョンの瞳の奥には今なお熱情が滾っている。その熱を宿した眼で見つめただけで、身体の奥が溶けた。
彼は何度喰らい尽くしてもまだ足りないと言いたげに、飢えたまなざしで見ている。一方の自分はこんなに感じ過ぎたら心が壊れてしまうのではないかと心配しているのに、セリョンの中で女らしい純粋な歓びが本能的な恐怖と混じり合った。
ムミョンが翠翠楼を出たのは、明け方、東の空が白々と明け初(そ)める頃であった。
セリョンは見世の表まで彼を送った。夜明け前のひととき、不夜城のごとく煌々と輝き、女たちの嬌声と男たちの吐息に溢れた廓も今はしばしの眠りについている。それは軒を連ねた他のどの見世でも同じだ。
人気のない道を、細い生まれたばかりの月が白く照らし出していた。見世の表口を出たところで、ムミョンが振り返る。
「そなたに頼みがある」
「私にできることなら、何でも」
セリョンが心から言うと、ムミョンが薄く笑った。
「何だ、随分と殊勝だな」
いかにも彼らしい茶化した物言いに、セリョンも拗ねたように言う。
「嫌みを言うなら、きいてあげない」
「冗談だ」
彼は笑い、ひと息に言った。
「近い中で良い、宮殿に戻る前に大王大妃（テーワンテービ）さまを訪ねてくれないか」
突然出た予期せぬ人の名に、セリョンは眼を見開いた。
「大王大妃さまをお訪ねするの？」
「ああ。住み慣れた宮殿を出られて以来、彼(か)の方はいまだにお寂しくお暮らしだ。一度、ご様子を見てきて欲しい」
「判ったわ」
「よろしく頼む」
彼は言葉少なに言い、セリョンを切なげに見た。そのまなざしは言葉よりはるかに多くの感情を、彼の想いを伝えている。
「次にここに来るときは、今度こそ連れて帰るぞ」
「ーええ」
セリョンがかすかに笑む。ムミョンの最後の台詞は随分と早口だった。そのことに特に不自然さを感じないまま、セリョンは早足で色町の通りを遠ざかる彼を見送った。
身体は泥のように疲れていたけれど、不思議と心は愛する男に愛し尽くされた歓びのようなもので満たされていた。
だから、セリョンは自覚していなかったのだ。ムミョンが迎えにくると言った時、彼女自身がわずかな躊躇いを見せたのをムミョンは見逃していなかった。
疲れていたが、座敷にはまだ酒肴の乗った小卓が残っている。考えてみれば、布団もない部屋で延々と獣のように激しい交わりを重ねていたのだ。自分が彼の膝の上でどれだけ乱れに乱れたかを思い出し、セリョンは羞恥に頬を染めた。
見世の内は水を打ったような静けさに満たされている。夜更けに帰る客、敵娼と一夜を過ごす客、男たちの帰る時間は様々だ。客と同衾している妓生も今はまだ床の中だろう。
見世の入り口を通り過ぎ、女将の仕事部屋を横目に見て階段を上ろうとして、セリョンはふいに湧き上がってきた虚しさに居たたまれなくなった。泣きたいような、笑い出したいような妙な感情は涙となって溢れ、眼から零れ落ちた。
彼女は大階段の数段目にくずおれるように座り込み、両手で顔を覆った。
彼に夜通し抱かれながら考えた。
やはり、彼の優しさに甘えることはできない。幾ら国王がどう言おうと、次代の王は彼の血を分けた息子ー直系の王子がなるべきだ。
むろん、セリョンも宮殿に戻るつもりではいる。
ー傍にいて欲しい。
希(こいねが)うような瞳で訴える彼をこれ以上、拒むのは不可能だ。けれど、それはどれだけ辛いことか。
セリョンは今度、王宮に帰還したら、真っ先に吏曹参判の息女を中宮殿に招待しようと考えている。娘の人となりを見て、王に仕えるに足る人物だと王妃として判断できたなら、正式に入内させるつもりだ。
ー好きだからこそ、譲るべきところは譲り、通すべきことは通す。
それが、セリョンなりに出した結論だ。
どれほどムミョンが異を唱えようが、中殿として新たな〝後宮人事〟を行うつもりなのだ。
ムミョンは本来優しい、情に厚い男で、男気もある。仮に不承不承召し出しても、ひと度妻となれば吏曹参判の息女をも粗略には扱わないはずだった。
令嬢が好ましい女性であれば、最初は義理と責務感から閨を共にしていても、いつかは彼女に男としての情を抱く可能性もある。それは八年前、初めての側室華嬪を迎えたときを見ても判る。
初めは清国から押しつけられた花嫁として華嬪を疎んじていたにも関わらず、いつしかムミョンは彼女を慈しむようになっていた。もちろん、その背景には見かけは宗主国の皇女として居丈高にふるまう華嬪が実は虚勢を張っているだけにすぎないと判ったからでもある。
素顔の華嬪は聡明で優しい、魅力的な少女であった。だからこそ、ムミョンも次第に華嬪に惹かれていったのだ。
それはよく判っている。でも、大好きな男が他の女人に優しく微笑みかけるのを見るのは何と哀しいことか。
自分は中殿として失格だ。これでは、華嬪のときと何ら変わらない。本当に何の進歩もないではないか！
そのときだった。気遣わしげな声が頭上から降ってきた。
「セリョンさん」
聞き憶えのある声に弾かれたように顔を上げる。やはり、メチャンだった。
「大丈夫ですか？」
直裁に問われ、セリョンは力ない笑みを浮かべた。
「大丈夫じゃないかも」