一生勉強、一途に文芸道~生まれ持った才能には限りがあるが、後から努力で「実力」は身につけられる | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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「一生勉強、一途に文芸道」
 
 先日、少しご紹介した「後宮の烏」の第三巻を読んでいる。なかなかに面白く興味深い内容は変わらないが、正直、少しだけ話の進行にもたつきが感じられるようになった。
 しかしながら、これはどんな名作であっても、多少はつきものだ。一冊完結ならともかく、何冊も巻を重ねての長編となれば尚更である。初巻から最終巻まで読者を一時たりとも逸らさず牽引するのは容易ではないのだ。
 あくまでも多少、感じられるという程度で、これはもちろん読み手の好みによるものかもしれない。もちろん、その程度で本作の面白さが損なわれることはなく、私は続けて読みたいと思っている。
 それにしても、この作品を読んで改めて学んだことは多い。文章の美しさというのとは少し違う、表現力の豊かさといえば良いのか。例えば、ヒロインの相手役の皇帝の人柄を言い表す時、
ー冬の陽だまりのような。
 というような形容を作者は使っている。私は最初にこの形容に遭遇した瞬間、ハッとした。「春の陽だまりのような」という形容は私もしばしば使う。だが、「冬の陽だまり」は使ったことがないーというより、そもそも思いつきもしなかった。
 では、似たようでありながら全く異なる印象を与える二つの表現がどのように違うのか、具体的に考えてみよう。
 まず、陽だまりというのは陽差しが集まった箇所で、その言葉から連想されるのは温かで、うららかなイメージだろう。更にイメージを深めてゆけば、「和む」という感情に繋がるかもしれない。誰しも陽だまりに包まれていれば、つい微睡んでしまうほど和まされるものだ。
 「温かな、和む」というイメージの陽だまりという言葉に季節を表す「冬」をつけただけで、更に具体的なイメージが喚起される。
 冬は厳しく、暗い、寒々としたイメージがあるが、冬に「陽だまり」をつけることにより、小春日和のうららかな陽差しを想像できるかもしれない。
 一方、「春の陽だまり」は、どうだろう。春という季節からは、うららかな、温かだ、優しい、といったやわらかなイメージが連想される。当然、「春の陽だまり」は、燦々と降り注ぐ春のやわからな温かい陽差しを連想するのではないだろうか。
 同じ陽だまりでも、冬ならば静かな、淡い陽差しをイメージするだろうし、春であれば、冬よりは力強い、もっと温もりのあるイメージだろう。
 冬の陽だまりはけして冷たくはないが、さりとて春のように生命力に満ちた陽差しではない。例えていうなら、とても静かな、淡い、かすかな温もりのイメージだ。
 私は、たったわずかな言葉の選び方の違いに瞠目した。
 

 登場人物の性格を示すのに、「春の陽だまり」という形容を多用してきたけれど、「冬の陽だまり」という形容は思いつきもしなかった。そもそも、陽だまりというのは春が先頭に来る言葉であり、「冬の」というのは用いたとしても情景・風景描写で用いる程度のものだった。
 そこに、私は深い表現力と洞察力を感じた。
 その他には、烈しい雨が降ったときの形容について「玉石をうがつような」雨という表現に注目してみたい。
 なるほど、「驟雨」の描写には色々あるだろう。私が真っ先に思い出すのは
ー桶(盥)をひっくり返したような。
 という表現だろうか。
 「玉石をうがつような」というのは、あまりにも烈しい雨つぶてにより、石が穿たれるーつまり、穴が空いてしまうことを言い表している。
 なるほどと思った。誰もが思いつくようでいて、実はなかなか思いつかない。それが咄嗟に浮かんでくるところが凄い。
 まだまだ探せばあると思うが、一事が万事、そういった表現の深みが随所に感じられるのだ。
 巧みなストーリー構成もさることながら、この表現力も素晴らしいと思う。
 しばらく少女小説からは遠ざかっていた私だが、この作品を手にしたのをきっかけに、またこの手のジャンルを読んでみようと考えている。
 人間は幾つになっても、どんなとき、どんな人からでも学ぶという気持ちが大切だ。何も良い子ぶっているわけではなく、心底からそう思う。
 生まれ持った才能は元から限られているけれど、後から学んで身につけた「実力」は自分次第で幾らでも身につけることができる。
 これからも、その初心を忘れないで、文芸というはるかな長い道のりをたゆまず焦らず怠らず歩いてゆきたいものだ。