彼女たちには夢がある。
いつかは長い年季明けに人並みの恋をして、嫁いで家庭を持ちたいとささやかな夢を持つ妓生。借金を返し終えたら、独立して妓房を営んでみたいという妓生。客と身分違いの恋に落ちて苦しみながらも、見世で逢えるひとときだけが愉しみだという妓生もいた。
妓生たちはさながら蓮池で凜として花ひらく蓮花にも似ている。蓮の花も濁りきった池から、あんなにも清らかで美しい花を咲かせるではないか。
凛然とした蓮の佇まいはまさに廓で自分の花を懸命に咲かせようとする妓生たちの姿そのものだ。あの苦労知らずのお姫さまに、彼女たちを貶める資格があるとは思えない。
英宗がこちらへ向かって歩いてくる。セリョンは脇へより、頭を下げようとした。セリョンの手前でふと王が止まる。
「中殿」
いつも二人だけのときは名を呼ぶ彼も人目があるときは違った。いまだに呼ばれ慣れない呼び方で呼ばれ、セリョンは頭を低く垂れた。今の状態をあらゆる意味で、ムミョンにあまり見られたくはない。
しかし。彼はめざとくセリョンの頬を見たようだった。
「中殿、その顔は一体―」
国王が突如として止まったので、大勢のお付きも後ろで待機している。ムミョンは大股でセリョンに近寄った。セリョンは身を縮め、ますます顔を伏せる。
「中殿! 顔を見せろ」
ムミョンはセリョンのうつむけた顎に手をかけ、自分の方へと向かせた。刹那、息を呑んだ。
「頬が腫れているではないか!」
ムミョンは震える声で言い、セリョンの側に控えるホンファに鋭く問いただした。普段とは別人のような厳しい声音だ。
「イ女官、これはどういうことだ? この国の王妃の頬がどうして、こんな無残な有り様になっている!」
ホンファがその場に手をつかえた。
「お許し下さい。私の落ち度です。どうか私を罰して下さい」
ムミョンが心もち声を声をやわらげた。
「そなたを罰したとしても、中殿の頬が元通りになるわけではない。さりながら、王妃たる者がかような怪我を負ったとあれば、朕も原因を知る必要はある。ゆえに、何があったのか、包み隠さず話してくれ」
ホンファはその諄々とした諭しに勇気を得たようである。
「実は」
言いかけたホンファに覆い被せるように、セリョンが言った。
「庭園を散策していて、迂闊にも石に足下を取られました。転んだせいで、このようなみっともない有り様になったのです」
ムミョンの綺麗な眉がつりあがった。
「たかが転んだだけで、ここまで腫れるものか?」
「万悪く転んだ場所に大きな石があったのです。どうやら、そこにぶつけたようです」
我ながら苦しい言い訳だとは思うが、咄嗟に思いついた返答だから仕方ない。
ムミョンは溜息をついた。
「そなたが頑固なのは知っている。とにかく中宮殿に戻ろう」
道すがら、二人の間に会話らしい会話はなかった。国王と王妃を認め、中宮殿の殿舎正面前に控えている女官たちが慌てて両側から扉を開ける。王、王妃が階を昇り姿を消し、扉はまた元通りに女官たちによって閉められた。
居室に戻り、ムミョンは衝立を背にした座椅子(ポリヨ)に座り、セリョンは座椅子の前の文机を挟んで下座に座った。ほどなくホンファが冷たい水を汲んだ金盥と清潔な手巾を持ってきた。
ホンファが次の控えの室に行ったところで、ムミョンが手巾を水に浸し絞ってから、セリョンの右頬に押し当てた。
冷たい感触が心地良い。不覚にも一旦は止まっていた涙がまた滲んだ。
泣いてはいけない。言い聞かせても、溢れ出した涙は止まらず、ポトリと床に落ちて染みを作った。
「セリョン、一体何があった?」
ムミョンの真摯な声は、彼が心から案じてくれているのが伝わった。ますます泣けてきて、セリョンは嫌々をする幼子のように首を振りながら嗚咽を洩らした。
ムミョンが中宮殿を最後に訪ねてから、ひと月近くが経とうとしている。自分では長い日々だと思ったけれど、実際にはまだ一カ月も経っていなかった。そして、心が離れたと思っていたのに、今でも彼はこんなにも優しい。いや、ムミョンは元々優しい男だから、愛情がなくなった妻に対してもこの程度の気遣いはするだろう。
けれど、真相を告げられるものではなかった。華嬪は清国の姫だ。清国出身の側室が朝鮮の王妃の頬を打った。ホンファの言うとおり、下手をすれば国家間の問題にまで発展しかねない。
また、セリョンの中にはあれほどの侮辱を受けながら、依然として幼い華嬪への憐憫もあった。年少で祖国を離れ嫁いだ華嬪の心境は、さながら敵地へ送られる人身御供にも等しかったに相違ない。けして本人が望んだわけでも、良縁だと歓んだわけでもあるまい。
華嬪だとて、皇帝の命令には逆らえなかったのだ。だから皇帝の言うがままに嫁いできた。
少し時が経って華嬪がこの国に慣れて、祖国としての愛情を持つようになれば、立場をいささかなりともわきまえるようになるだろう。それまでは年上であり、中殿である自分が我慢すべきだという想いがある。
ムミョンが幾ら問いかけても、セリョンから明確な応えは得られなかった。ムミョンは諦めて帰っていった。
王がお付きの集団を従えて歩きだそうとした時、遠慮がちな声が追いかけてきた。
「殿下」
最初は空耳かと思った。もしやセリョンが見送りにきてくれたのかと一瞬期待したが、彼はすぐに己れのあまりにも虫の良すぎる期待を嗤った。
セリョンに嫌われるようなことをしでかしたのは、他ならない自分自身ではないか。中宮殿をこの前訪ねたのは、今月初めのことだ。丁度、都の桜がそろそろ満開になろうとする時季だった。
悪いのはすべて自分だ。こうなってしまったのも、すべては不甲斐ない自分のせいだ。清国の姫を後宮に受け入れたのは、国王としては致し方のない決断ではあった。ただの一人の男としての感情は、セリョン以外の女など欲しくないと訴えていた。けれども、朝鮮国王としての我が身はただ自分の気持ちに素直に生きていれば良いというものではない。
幾ら妻以外の女は欲しくなくとも、大国の皇帝から贈られた女、しかも皇帝の孫だという姫をむげに突き返すことはできなかった。
自分の肩にはセリョンだけではなく、この国中の民の安寧が委ねられている。一時の激情で突っ走った挙げ句、国中を危険に晒す愚かなふるまいは許されない。
だとしても、だ。皇女を迎え入れるのは仕方ないとしても、もっと他にやりようがあったろうと自分でも思う。たとえ他の女を後宮に迎えても、自分の心は変わらないのだとセリョンにしっかりと胸の想いを伝えることはできたはずである。側室を持つなら、なおのこと妻に事を分けて事情を話し納得させるのが良人としての務めであった。
なのに、自分はセリョンに対しての後ろめたさと申し訳なさから、セリョンと向き合うどころか逃げてしまった。妻と距離を置くことで、セリョンと話し合うことを先伸ばしてにしていた。こんな情けない有り様だから、妻に愛想を尽かされるのだ。
前回、中宮殿に泊まった夜もセリョンに指一本触れられず、夜明け前、逃げるように大殿に帰った。挙げ句、セリョンに言えたのは
―済まない。
そのひと言だ。自分でも情けなさすぎて、涙が出る。
このままセリョンと自分は理解し得ない夫婦として、溝を深めてゆくしかないのか。