韓流時代小説 寵愛【承恩】
～隻眼の王の華嫁は二度、恋をする～
第四話 夢うつつの蝶
「そう、今だけは、王と町娘ではなく、ただの男と女でいたい。せめて今だけは、ただのセリョンとムミョンでいられるこの大切な時間に浸りたい」
～遊廓の女将の娘が王様を好きになっても良いの？～
とある国王の御世、都漢陽では旅の一座が上演する仮面劇「王宮の陰謀」が大流行。
翠翠楼の一人娘、セリョンは念願叶って「王宮の陰謀」を見た帰り道、大怪我をして行き倒れていた美しい青年を助けるが－。
人物紹介
チョン・セリョン（鄭世鈴）－後の貞慧王后
妓房（遊廓）の看板娘。まだ幼い頃からセリョンを水揚げさせて欲しいと願う客が殺到するほどの美少女。外見を裏切るお転婆娘。明るく、落ち込んでも立ち直りの早い憎めない性格。
ムミョン（無名）－王世子（世弟）・後の国王英宗
自らを「無名」（名無し）と名乗る謎の男。雪の降る冬の夜、深手を負っていた彼をセリョンが助ける陰のある美男なところから、翠翠楼の妓生（遊女）たちに絶大な人気を集める。隻眼ということになっているも、実は碧眼と黒目のふた色の瞳を持つ。
☆貞順大王大妃（シン・チェスン）－韓流時代小説「後宮秘帖～逃げた花嫁と王執着愛」主人公。
三代前の国王知宗の正室。王室の最長老であり、後宮の最高権力
者。
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とりあえず、今はセリョンの心を少しでも解(ほぐ)してやるのが先決だ。ムミョンは考え、まだ背を向けたままのセリョンを残し、一人廊下に出た。階下に降り、廊下を辿って見世の方にゆく。
妓生たちの控え室は大部屋だ。皆、それぞれの場所に陣取り、小さな鏡台をのぞき込んで化粧や客を迎える支度に余念がない。中には支度を終えて談笑して盛り上がる数人もいる。
ファオルはやはり、その中にいた。片隅で一人、ひっそりと一分の隙もなく整えた髪を鏡を覗き込んで検めている。用心棒をしていた頃、この妓生たちの控え室には何度か用事で顔を出したことはある。
彼が扉を開けた途端、めざとく見つけた一人が嬌声を上げた。
「ムミョン！ 久しぶりねぇ」
「あ、ムミョーン」
精悍な風貌にどこか翳りを滲ませた彼は、武芸の腕も立った。無口なところがまた良いと妓生たちには評判も上々で、翠翠楼でのムミョンの人気ぶりは彼がいなくなってからも一向に衰える気配はない。無邪気にムミョンの登場に歓声を上げ、懲りずに色目を送ってくる彼女たちは、ムミョンが国王だとは知らない。
大方、どこぞの両班の暇息子が官職にあぶれて、暇を持て余しているのだと思い込んでいる。彼女たちもムミョンがセリョンの恋人だというのは知っているから、あからさまに迫るようなことはしないが、それでも、ムミョンがたまに翠翠楼に姿を見せれば、いまだに熱っぽい視線を寄越すのだ。
ムミョンはこの女の集団が大の苦手だ。ゆえに、用心棒時代も極力、ここには近づかないようにしていた。彼が国王のために美姫が集められた後宮に普段から近づかないのも、実はまったく同じ理由からである。
ムミョンとて、二十一歳の至って健康な男子である。他人と比べて特に女好きだとも性欲が強い方だとも思わないが、人並みの欲望は持っている。有り体にいえば、女体に慰めを見出したいときもあったし、もっといえば、けして女嫌いでもないのだ。
どうやら、幾ら周囲に勧められても後宮に渡らない彼を見て、臣下や果ては内官、女官に至るまでが皆、英宗（ムミョン）を女嫌いの国王だと思っているようだが。あまつさえ、
―国王殿下（チュソンチョナー）にはもしや男色の気がおありなのではないか？
―いやいや、そうではなく、畏れ多い話ではあるが、むしろ玉体に障りがあるのでは。
―障りというのは？
―知れたことよ、男としての機能をお持ちではないのかということよ。
などと、我が身に寵童趣味があったり、更には不能のように囁かれていると知ったときは、流石に頭を抱えたくなった。
まあ、言いたいヤツらには勝手に言わせておけば良い。いずれセリョンを中殿に迎えた暁には、山のように御子を作って言いたい放題言ったヤツらに健全な男であることを証明してやる。と、ムミョンはセリョンが聞けば怒り出すに違いないようなことを考え、一人で溜飲を下げている。
いずれ迎える（はずの）セリョンとの初夜を想像しただけで、頬が緩んでくる。一人でニヤついている彼の耳を、妓生の甲高い声が打った。
「ムミョン、元気だった？」
声の方を見れば、どこか見憶えのある女が笑顔で手を振っている。高く結い上げた妓生特有の髪型に幾つもの煌めく玉の簪を飾り、着替え中なのか、衣服を着ていなかった。いや、正確には華やかな牡丹色のチマを纏ってはいるのだが、上半身は胸に布を巻いただけの姿だった。
豊かな胸乳が布を押し上げ、布の位置があまりにも低すぎるため、胸の谷間がくっきりと見えている。ムミョンはとんでもないものを見たというように、慌てて視線を背けた。
―はて、あの妓生は何という名前だったか？
セリョン以外の女はまったく眼中にないため、あの妓生には申し訳ないけれど、名前さえ記憶に残っていない有り様だ。
あまりにつれなくするのも申し訳ないような気がして、彼はおずおずと手を振った。
「キャー」
一斉に黄色い声が湧き立った。最初に声をかけた妓生の隣の妓生が恍惚りと言う。
「ムミョンが私を見つめているわ」
「何よ、彼が見ているのは私の方よ」
すかさず、元の妓生が言い返す。
相方の柳眉がきりきりとつり上がった。
「何ですって？」
「誰が黒牛蒡のような色気のないあんたなんか、相手にするものですか」
「黒牛蒡って、どういう意味？」
最初の妓生が鼻を鳴らした。到底、都でも名の知れた妓楼の妓生とは思えないふるまいだ。
「どんなに白粉を塗ったくっても隠せないほど色黒で、出るところはちっとも出てない貧相な身体つきだっていうことよ、判った？」
「言うに事欠いて黒牛蒡だって？ 何よ、あんたの方こそ白粉を塗りたくった、漆喰壁お化けの癖に」
負けずに言い返した相方に、最初の妓生が怒りで真っ赤になった。
「言ったわね」
相方の頬を打つと、乾いた小気味良い音が響き渡った。他の妓生たちもやはり支度中でそれぞれ和やかに過ごしていたのに、あっという間に水を打ったように静かになった。
相方も負けてはいない。頬を打たれるや、すぐに自分も相手の頬を打った。
「大体、あんたは生意気なのよ。私の方が先輩なんだから、少しは敬意を持って接したら、どう？」
最初の妓生が歯がみするのに、色黒の妓生はフフンは嗤った。
「誰が先輩だって？ ろくに舞の一つも舞えなくて、いつもお母さんに叱られてばかりいる癖にさ」
「この！」
色白の妓生が後輩の襟元を摑んだそのときだ。片隅で一人、黙々と化粧をしていたファオルが立ち上がった。彼女はつかつかと歩き、睨み合う二人の間に立ちはだかった。
「お母さんが寝込んで、今、翠翠楼が大変なときなのは判ってるの？ こんなときこそ、私たちが心を一つにして廓を守ってゆかなければならないのに、つまらないことで仲間割れして、どうするの！」
ファオルは鋭い眼で二人の妓生たちを見つめた。
色白の妓生がうなだれた。
「ごめんなさい、姐さん」
色黒の方も素直に詫びる。
「ご免なさーい、姐さん、今日ばかりは許して、お母さんには言わないで」
まだ十六になるかならないほどの妓生は、甘えるような口調で言った。その仕草は無理に大人びて見せようとする濃い化粧が痛々しいほど、幼い。
ファオルの美しい面に複雑な表情が浮かんだ。仮にファオルが事の顛末を伝えたとしても、今の女将には怒る気力さえないだろう。十日前に心臓発作を起こして以来、女将はずっと寝込んだままで、回復ははかばかしくない。
見世はファオルが女将の代理として何とか平常どおり営業を続けてはいるが、ウォルソンに騙し取られた大枚を穴埋めするための金子は、いまだ都合できておらず、このままでは来月の営業が危ぶまれている。
ムミョンは女たちの諍いを茫然として眺めていた。あまりの凄まじさに、毒気を抜かれた気分だ。
「参ったな、後宮も妓房も似たようなものだ、女の園は怖い。近づかないに限る」
思わずブルッと身を震わせる。耳ざといファオルは聞き逃さなかったようで、妓生たちが落ち着くのを見るや、さっと彼に近づいた。
「ようこそ、いらっしゃいませ」
彼女の顔には苦笑が刻まれている。ムミョンの後宮嫌いを知っているから、これでまた余計に国王の脚が後宮から遠のくだろうと思ったのだ。王の訪れを待ちわび、我こそは見初められてお手つきとなるのを夢見ている女官たちを改めて気の毒だと思った。
ファオルの胸中も知らず、ムミョンは怖々と言った。
「忙しいときに済まない、ちょっと良いか」
「はい、若さま（トルニム）、何でしょう？」
「セリョンを少し連れ出したいんだが、構わないだろうか？」
ファオルはムミョンの意図を察した。
「お母さんには私が付いていますから、どうぞご心配なく」
「それでは、よろしく頼む」
ムミョンは頷き、這々の体で女たちから逃れるように立ち去った。背後では、例の妓生たちが口々に囁き合う。
「残念、ムミョンたら、もう行っちゃったわ～」
「当たり前でしょ。彼はセリョンの恋人だもの。あたしたちなんか相手にするもんですか」
「だわね。ああ、私もムミョンみたいに美男で、おまけに金持ちの両班の若さまに見初められたいわぁ～」
官職にもつかず、気ままにふらりと翠翠楼を訪れるムミョンは、妓生たちには裕福な両班の極楽とんぼだと思われている。
色白が言えば、妹女郎が笑った。
「あんたはセリョンの足下にも及ばないわ、っていうか、月とスッポン。無理無理」
「何ですって、まだ言う？」
「だって本当のことでしょ」
また険悪になる二人をファオルが睨んだ。
「ホホウ、良い加減にしなさい、二人とも」
二人は顔を見合わせ、肩を竦めた。