小説 逢いたくて~心花(こころばな)~
第12話 花見月の別れ
☆ 心に花を咲かせるんだよ。たとえ小さくても良いから、自分だけの花を心に咲かせるんだ。-それが、私が13歳の時、亡くなった、おっかさんの口癖だった。 ☆
お彩(さい)は16才。江戸の町外れ、通称、〝甚平店〟で父の伊八と
二人暮らし。母のお絹は屋台を引いて歩く夜泣き蕎麦屋をやっていたが、
働き過ぎがたたって、若くして亡くなった。
実は、伊八はお彩の実父ではない。
お絹が既に亡くなった男に犯され、心ならずも身ごもった子どもだった。
当時、伊八とお絹は既に恋仲で、将来の約束も交わしていたのに、
お絹はさらわれ、人気のない寺に監禁された挙げ句、陵辱されたのだ。
いったんは身を引いたお絹を想う伊八の心は変わらず、二人は祝言を挙げて
夫婦となり、お彩が生まれた。
伊八は、江戸でも評判の腕の良い飾り職人である。
彼はお彩を実子として手塩にかけて育て上げた。それは母お絹が亡くなってからも
変わらない。そんな優しくて頼もしい父を、お彩は物心ついたときから、大好き
だった。
それが、いつから、父を〝男〟として意識するようになったのか。。。
ついには住み慣れた家を出て、一人暮らしを始めた。
そんなある日、お彩が働く一膳飯屋に見知らぬ男が現れる。
圧倒的な存在感を持つ、凄艶なほどの美貌を持つ男。なのに、
その瞳には孤独の色を滲ませている。
いつも一人で黙々と酒を飲む男を、お彩はいつか気にするようになっていた。
新しい恋の予感。
それが、やがて、お彩自身の生涯を決定する運命の出逢いだとは、お彩はまだ
知らない。
更に、その謎の男が母お絹と浅からぬ因縁があることも-。
お彩に一途に想いを寄せる同じ長屋の伊勢次、この名も知れぬ男、これらの
二人の男こそが後々、お彩の生涯に深く関わってくるのだった。
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「そいじゃ、お先に」
そう言って数歩あるいたおさきが、つと振り返った。
「お彩ちゃん」
「はい?」
お彩は突然呼ばれ、愕いて、おさきを見た。
おさきの表情は、真剣そのものだった。
「あんたが帰ってきてくれて、良かった。おきわさんは、あのとおり気丈な女ひとだから、弱音なんて見せないけど、たった一人の倅を亡くしちまって、かなり落ち込んでると思うんだよ。おまけに、長患いの身で、つい先だって養生所から帰ってきたばかりだしね。皆、おきわさん一人じゃ、この先どうなることかと心配していたところに、あんたがひょっこりと帰ってきてくれた。私らもむろん、できるだけのことはするつもりだけど、そこはやっぱり、自分たちの暮らしってものがあるからね。その日暮らしの身じゃア、正直、何もしてあげられやしない。息子の嫁のあんたがおきわさんの傍にいてやれば、おきわさんもどれだけ心強いかしれやしないし、お美杷ちゃんまでいれば、沈んだ心も少しは明るくなるっていうもんだろうさ」
おさきの言うことは道理である。お彩の生まれ育った甚平店にしろ、この長屋にしろ、粗末な裏店に住む住人たちは皆、互いに助け合うのが人情でもあり、習わしでもある。しかし、彼らがその日暮らしであることは確かで、自分や家族がその日その日を過ごしてゆくのが精一杯というのも真実なのだ。
たとえ、おさきがおきわに何かをしてやりたくとも、それにも自ずと限界がある。そのことからも、おさきは、倅の嫁である―と思い込んでいる―お彩が帰ってきて良かったと歓んでいるのだ。
「私も伊勢次さんの分まで、できるだけのことをしたいと思ってます」
それは、お彩の本音でもあった。伊勢次が果たせなかった分まで、おきわに孝養を尽くすのだと決めて、江戸に帰ってきたのだ。
お彩の言葉に、おさきは笑顔で頷いた。
おさきを見送ってからしばらく後、お彩自身も洗濯を終えて家に戻った。
家の前まで帰ってきた時、まだ寒い時分とて、腰高はお彩が出たときのまま、きっちりと閉まっていた。と、家の中からキャッキャッというはしゃぎ声が響いてきて、お彩は立ち止った。
障子戸を細く開けて、そっと覗いてみると、信じられない光景が眼前にあった。おきわがお美杷に何やら指し示しながら、話しかけている。お美杷は眼を醒ましているようで、おきわの指した方を見て、歓声を上げていた。
おきわの指し示した方には、小さな箪笥が置いてあり、その上には一対の雛人形が置いてあった。
もうかなりの歳月を経ているものらしく、人形の衣装も色褪せ古びてはいるけれど、元は高価な品のようで、作りもしっかりとしていて衣装も立派だ。
そういえば、今は折しも雛の節句の季節だけれど、この雛人形は、別段この季節にだけ飾られているわけではなく、年中出しっ放しにしてあるのだという。その話を、お彩はかつて伊勢次から聞いたことがある。この家に住むようになって日も浅い頃、お彩が不思議に思って、伊勢次に訊いたのである。
なにゆえ、弥生の桃の節句に飾るはずの雛が季節外れなその時分に出ているのか。その問いについて、伊勢次は、こう教えてくれた。
伊勢次の母おきわは手広く商いをしていた瀬戸物屋の娘であった。お彩にいきなり婚礼支度の晴れ着の仕立てを何着も頼んでくれた例の瀬戸物屋は、おきわの父方の遠縁に当たるのだ。何でも、おきわの叔父がおきわの父から金を借りて出した店だとかで、今はその倅―おきわにとっては従兄の代になってはいるが、日頃から、恩のある人の娘、しかも血続きということで、おきわのことを気にはかけているらしい。
そういう事情もあり、見ず知らずのお彩に、瀬戸物屋の内儀が娘の婚礼衣裳やら支度やらの仕立てを頼んでくれたのであった。
おきわは両親に可愛がられて育った。已之助という六つ違いの弟が家業を継ぎ、おきわは、出入りの庭師の倅と恋仲になり一緒になった。嫁ぎ先は羽振りの良い造園業を営む家で、良人は棟梁の跡継ぎ息子であった。しかし、良人は、おきわが懐妊中に亡くなり、その死後に生まれた赤子も生後三か月で夭折、おきわは実家に戻った。
悲嘆に暮れているところに伊勢次の父徳松との再縁話が舞い込んできたのである。当時、徳松もまた女房を亡くし、生まれてまもない赤子を抱えて、途方に暮れていた。その赤子こそが伊勢次であり、従って、伊勢次とおきわの間には正確には血の繋がりはない。
その後、おきわの実家の瀬戸物屋は已之助が跡取りのないまま早死にしたこともあって、店を閉めざるを得ない仕儀とあいなった。
この雛人形は、おきわが誕生した砌、おきわの父が特注で作らせたのだという。おきわは最初に嫁入りする際もこの雛人形を嫁入り道具として持参し、徳松の後添えになるときも持ってきた。元は段飾りであったのだが、流石にそっくりそのままを裏店に持ち込むことはできず、やむなく内裏雛だけを持ってきて、ああして箪笥の上に後生大事に飾っているのだと、伊勢次は話してくれた。
かなり大きな店を営んでいたというだけあり、その雛人形は金に糸目をつけず拵えたことが判る値打ち物であった。おきわは、徳松にも先立たれ、暮らしに困るようになっても、けして、その雛人形だけは質に入れようとはしなかった。
伊勢次はしんみりと言っていた。
―あの雛人形には、お袋の少女の頃の幸せな夢がいっぱい詰まってるんだろうな。こんな貧乏長屋にはいかにも不似合いなだけなんだが、親父はお袋の気持ちがよく判ってたから、何にも文句は言わなかったんだろう。
伊勢次は、おきわが実母ではないことを幼時に知ったという。が、おきわは伊勢次が自分を真の母と思っていることを疑ってもいない。それでも、伊勢次がおきわにそのことを敢えて告げなかったのは、血の繋がりよりも、おきわと親子として過ごした歳月を大切にしたいと思うからだと、いつか伊勢次は語っていた。
今、おきわは、その雛人形を指して、しきりにお美杷に何かを語りかけていた。生後六か月の赤子がその話を理解するとでもいうように。
お美杷は、うつ伏せになって可愛い手足をしきりにバタバタさせて、はしゃいでいる。
そのつぶらな瞳は確かに、小箪笥の上の雛人形を見ているようにも思える。
その光景は、どこから見ても、祖母と孫の微笑ましいやり取りにしか見えなかった。そして、お美杷に向けられたおきわの横顔は確かに笑っていた。おきわの白い血の気のない顔に、うっすらと赤みがさしている。心なしか、その表情が生き生きとしているように見えた。
おきわと暮らすようになってひと月余り、お彩は、おきわの笑顔をこの時初めて見たのである。
お彩は、足音を立てないように細心の注意を払いながら、そっとその場から離れた。今だけは、おきわが久方ぶりに取り戻した折角の笑顔を曇らせたくはなかった。
四半刻ほどして再び帰ってきた時、おきわは既に眠っているのか、眼を閉じて横たわっていた。お美杷は、はしゃぎ疲れたのか、これもまた、その隣の布団で寄り添うようにあどけない寝顔を見せていた。
お彩は、二人を起さないように、物音を立てないようにして、片隅の小箪笥の上に桃の花を活けた。家中を探しても花瓶のような気の利いたものは見当たらないので、徳利に桃のひと枝を入れる。
時間潰しのついでに近隣の花屋で買ってきたのだ。