新章開始 小説 逢いたくて~心花~「氷の男」の心を動かした女-彩が京屋市兵衛と結婚へ | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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小説 逢いたくて~心花(こころばな)~

  第十話  宵の花

 

☆ 心に花を咲かせるんだよ。たとえ小さくても良いから、自分だけの花を心に咲かせるんだ。-それが、私が13歳の時、亡くなった、おっかさんの口癖だった。 ☆

お彩(さい)は16才。江戸の町外れ、通称、〝甚平店〟で父の伊八と
二人暮らし。母のお絹は屋台を引いて歩く夜泣き蕎麦屋をやっていたが、
働き過ぎがたたって、若くして亡くなった。

実は、伊八はお彩の実父ではない。
お絹が既に亡くなった男に犯され、心ならずも身ごもった子どもだった。
当時、伊八とお絹は既に恋仲で、将来の約束も交わしていたのに、
お絹はさらわれ、人気のない寺に監禁された挙げ句、陵辱されたのだ。

いったんは身を引いたお絹を想う伊八の心は変わらず、二人は祝言を挙げて
夫婦となり、お彩が生まれた。

伊八は、江戸でも評判の腕の良い飾り職人である。
彼はお彩を実子として手塩にかけて育て上げた。それは母お絹が亡くなってからも
変わらない。そんな優しくて頼もしい父を、お彩は物心ついたときから、大好き
だった。

それが、いつから、父を〝男〟として意識するようになったのか。。。
ついには住み慣れた家を出て、一人暮らしを始めた。

そんなある日、お彩が働く一膳飯屋に見知らぬ男が現れる。
圧倒的な存在感を持つ、凄艶なほどの美貌を持つ男。なのに、
その瞳には孤独の色を滲ませている。
いつも一人で黙々と酒を飲む男を、お彩はいつか気にするようになっていた。
新しい恋の予感。
それが、やがて、お彩自身の生涯を決定する運命の出逢いだとは、お彩はまだ
知らない。
更に、その謎の男が母お絹と浅からぬ因縁があることも-。
お彩に一途に想いを寄せる同じ長屋の伊勢次、この名も知れぬ男、これらの
二人の男こそが後々、お彩の生涯に深く関わってくるのだった。
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【其の壱】

 

 

 藍染の着流しに同色の羽織をすっきりと着こなした良人に向かい、お彩は手を付いた。
「いってらっしゃいませ」
 少し躊躇ってから、お彩は小さな声で続けた。
「今日もまた遅くなるのですか」
 しばらく応えはなかった。もう返事はないのかと思った頃、良人の声が背中越しに聞こえた。
「帰りはいつになるか判らないから、先に寝んでいなさい」
「はい」
 お彩の返事をを待ちもせず、良人はそのまま廊下を歩き去っていった。とうとう一度も振り返ることはなかった。
 お彩は江戸でも随一と謳われる大店「京屋」の内儀である。その良人は主の京屋市兵衛だ。京屋は大店にして老舗の呉服太物問屋であり、当代の市兵衛で数えて六代目になる。初代が京都から出てきて商売を始めたのが始まりで、今も京から直に仕入れた品物しか置かない。多少値は張っても品質が良いものを扱うということで、多くの客からの信用を得ていた。が、その半面、客層はやはり相応の商人の内儀や高禄の武士の内室といった、いわゆる上層階級の身分の者に限られている。
 お彩のように貧しい裏店で生まれ育った娘には本来ならば、生涯手の届くどころか、敷居をまたぐこともない場所であった。それがどういうわけか、京屋の六代目当主市兵衛の女房となり、お彩は今、ここにいる。
 市兵衛と初めてめぐり逢ったのは、もう五年近くも前のことであった。お彩は、一膳飯屋「花がすみ」の仲居として働いていた。その店に思い出したように現れる客が市兵衛であったのだ。市兵衛の名前さえ知らず、お彩は恋に落ちた。先行きに見込みのない恋だと諦め、一度ならず二度までも別れを決意しながらも、二人はついに互いの気持ちを確かめ合い、つい三ヶ月前に祝言を挙げたばかりだ。
 京屋が他に引けを取らない大店であるばかりか、その親類たちも多くが相応のお店を営んでいる連中ばかりである。そんなわけで、当初は市兵衛とお彩の結婚は周囲の猛反対にあった。そのことは市兵衛が先の五代目の血を分けた息子ではなく、娘婿だということも大いに関係がある。
 京屋の主人は当主の座につくと同時に「市兵衛」を名乗る。当代の市兵衛もそれまでは陽太という名を持っていた。お彩は市兵衛が京屋の主人であると知るまで、陽太という名を教えられていた。
 六代目市兵衛は鋳掛け屋の倅であり、父親のように一生貧乏で終わるのがいやで、十歳で奉公に出たのである。丁稚として京屋に入った陽太はその聡明さや陰陽なたない働きぶりを五代目市兵衛に気に入られた。また陽太がまたとない美男であっこともあり、五代目市兵衛の長女お市が陽太にほのかな恋心を持つようになった。
 五代目は陽太がまだ丁稚の時分から眼をかけ、商用に行くときも必ず連れていった。店の他の奉公人たちにも、いずれ陽太がお市の婿になることは話した上で、陽太を自ら一人前の商人に育てるべく躾た。ゆえに立場こそあくまで奉公人ではあったが、陽太は当時から既に未来の若旦那として周囲から認められていたのだ。
 陽太は丁稚から手代、手代頭と順当に出世した。陽太が二十歳の時、五代目市兵衛が卒中の発作で倒れた。その時、陽太は長女のお市と所帯を持って、わずか半年であった。市兵衛は辛うじて生命を取り留めたものの、殆ど寝たきりになってしまった。意識は確かであっても、現実として市兵衛が商売に復帰する目途はなかった。五代続いた京屋もこれで終わりかと奉公人初め危ぶむ者も多かった。
 しかし、娘婿である陽太が市兵衛の手足となって動くことで、京屋は混乱に陥ることもなく無事に危機を脱した。その半年後、市兵衛が亡くなり、陽太は京屋の暖簾を継いで六代目市兵衛を襲名した。二十一歳の若さであった。が、京屋を襲った不幸は終わらず、その五年後、六代目を継いだ市兵衛の女房お市が二十七の若さで病死した。市兵衛は死んだ女房より一つ下の二十六になっていた。
 六代目を名乗る市兵衛は先代に見込まれただけあって、やり手であった。二十一の若さで京屋ほどの大身代を継ぎながら、主人としての務めを申し分なく果たした。そのため、五代目の死にも京屋の屋台骨はいささかも揺れ動くことなく、六代目が当主の座に納まってからというもの、京屋は更にその身代を大きくしたともいわれている。同業の呉服問屋の中にはむろん年輩者もいたが、そんなはるか年長の同業者から市兵衛は畏怖される存在であった。
 「凄腕」と評される六代目市兵衛は最初の妻を亡くしてからというもの、ずっと独り身を通してきた。一つには先述したように、市兵衛が京屋の息子という立場にはないことが挙げられるだろう。奉公人上がりの市兵衛にとって、先代から蒙った恩恵には計り知れぬものがある。最初に女房はその大恩ある先代の娘であったのだから、それが亡くなったからといって、おいそれと別の女を後添えに迎えることはできない身であった。
 歌舞伎役者も色褪せるほどの美男ぶりであったことから、市兵衛の妻の座を狙う女は少なくはなかった。しかし、市兵衛は傍から見ても何を考えている判らないところがあり、商売人として物腰は穏やかではあったが、その態度には他の者に付け入る隙を与えないような冷徹さがあった。それは女性に対しても同じことで、愛想は悪くはないが、近づきすぎることをけして許そうとはしない頑なさを持っていた。彼の回りの人間は、結局、市兵衛の心を動かすだけの女が現れなかったのだと信じていたのである。
 ところが、そんな男の心を見事に手中にした女がいた。相手の女は裏店で生まれ育ち、一膳飯屋で働いていたような娘であった。父親は腕の良い飾り職人であったようだが、昨年の末に不慮の事故で亡くなっている。
 市兵衛は京屋の親類縁者に反対する者も多い中、終始、強硬な態度で押し切った。京屋の遠縁に当たる同業に相良屋という小店があるが、その相良屋の主人吉右衛門だけは唯一、この結婚に反対しなかった。というのも、吉右衛門の一人息子綸太郎が荷車に轢かれそうになったのを辛くも助けたのがその女の父伊八であったからだ。伊八はそのときの負傷が因で亡くなった。いわば、相良屋吉右衛門には市兵衛やその女に負い目があったのだ。
 市兵衛とその女―お彩は新しい年を迎えた早々、京屋で祝言を挙げた。幸菱を織りだした白無垢を身に纏った可憐な花嫁は二十歳、美男の市兵衛と金屏風を背に並んだ様は似合いの夫婦雛のようで、まさに華麗な絵巻物を見るようであった。花嫁の眼のさめるような美しさに、人々は陰でこっそりと
―あの器量では、氷の市兵衛と呼ばれている、さしものの京屋の旦那も落っこちるわいな。
 と噂し合ったものだった。
 人々から「氷の市兵衛」と呼ばれるこの京屋市兵衛の突然の結婚は、それから後、ひとしきり巷に格好の話題を提供した。その女と市兵衛がもうかなり以前から深間になっていたことなども知れるにつけ、二人をめぐる心ない噂は江戸雀たちの好奇心を刺激するには十分であったといえよう。
 市兵衛が誰からも注目される大商人であったこと、また京屋の婿養子であったことなどから、お彩と市兵衛の結婚は、それほどに世間的な影響を与える出来事であった。しかし、そんな噂も江戸に春がめぐり来て、あちこちで花だよりが聞かれる時分には、もう人々の頭からはすっかり薄れていた。