小説 逢いたくて~心花~この男を選べば、未来の保証は何もないと知りながら、私は彼の手を放せない- | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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小説 逢いたくて~心花(こころばな)~

    第六話  春の雨

☆ 心に花を咲かせるんだよ。たとえ小さくても良いから、自分だけの花を心に咲かせるんだ。-それが、私が13歳の時、亡くなった、おっかさんの口癖だった。 ☆

お彩(さい)は16才。江戸の町外れ、通称、〝甚平店〟で父の伊八と
二人暮らし。母のお絹は屋台を引いて歩く夜泣き蕎麦屋をやっていたが、
働き過ぎがたたって、若くして亡くなった。

実は、伊八はお彩の実父ではない。
お絹が既に亡くなった男に犯され、心ならずも身ごもった子どもだった。
当時、伊八とお絹は既に恋仲で、将来の約束も交わしていたのに、
お絹はさらわれ、人気のない寺に監禁された挙げ句、陵辱されたのだ。

いったんは身を引いたお絹を想う伊八の心は変わらず、二人は祝言を挙げて
夫婦となり、お彩が生まれた。

伊八は、江戸でも評判の腕の良い飾り職人である。
彼はお彩を実子として手塩にかけて育て上げた。それは母お絹が亡くなってからも
変わらない。そんな優しくて頼もしい父を、お彩は物心ついたときから、大好き
だった。

それが、いつから、父を〝男〟として意識するようになったのか。。。
ついには住み慣れた家を出て、一人暮らしを始めた。

そんなある日、お彩が働く一膳飯屋に見知らぬ男が現れる。
圧倒的な存在感を持つ、凄艶なほどの美貌を持つ男。なのに、
その瞳には孤独の色を滲ませている。
いつも一人で黙々と酒を飲む男を、お彩はいつか気にするようになっていた。
新しい恋の予感。
それが、やがて、お彩自身の生涯を決定する運命の出逢いだとは、お彩はまだ
知らない。
更に、その謎の男が母お絹と浅からぬ因縁があることも-。
お彩に一途に想いを寄せる同じ長屋の伊勢次、この名も知れぬ男、これらの
二人の男こそが後々、お彩の生涯に深く関わってくるのだった。
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 だが、それならば、陽太にとって自分は何なのか。そう問いたかったけれど、お彩にはどうしてもできなかった。
 応えを聞くのが怖かったからだ。一体、この男にとって自分という存在はどのような位置を占めるのか―、切ないほどに知りたいくせに、裏腹に知りたくないと怯える自分がいる。
―私は本気だ。
 ただ、先ほど耳にしたばかりの陽太のあの台詞だけが耳奧でこだましていた。
 陽太がけして嘘を言ってはいないことだけは判った。が、今の二人を取り巻く状況で、その言葉一つだけで陽太を信じるには、お彩はまだあまりにも若かった。
 本気ならば、何故、本当の名前を教えない?
 お彩を心底から求めているのなら、何故、もっと頻繁に逢えない? お彩を大切に思っているのなら、何故、お彩からも逢いにいくことはできないのだろう?
 そう考える時、お彩は大声で叫びたかった。
 もう、何を信じれば良いのか判らない。
 自分の気持ちだけでは、現実は何ら変わりない。陽太が本気だと言ってくれても、何も変わらない。陽太は、陽太の言葉だけを信じて、お彩にずっと待ち続けろとでも言うのだろうか。いつ逢えるか判らない、次に逢えるのかどうかさえ判らない、名前さえ知らぬ男を。
 伊勢次の真摯な求愛を拒絶してまで、自分が欲していたのが、この苛酷な現実なのだ。誠実で働き者の男の妻となり、可愛い子どもを生み育て、貧しいけれど穏やかな日々の幸せ―伊勢次と所帯を持てば、そんなさやかな幸福を絵に描いたような日々が待っていたに相違ない。その平凡な幸せを捨て、選び取ったのは、夢のように気紛れに訪れる、たった一瞬のめくるめくようなときめきと歓びだった。たとえ心底から欲しているものだとはいえ、それはあまりに儚い「夢」だった。
 それでも。
 お彩は何度同じ場面に遭遇したとしても手、同じ道を選んだに相違ない。伊勢次の手を取れば幸せになれると判りきっていながら、その手を振りきって、自ら茨の―あるいは破滅へと通ずる道に脚を踏み入れようとしただろう。
 人はたとえ幸せになれないことが判っていたとしても、その道を進まざるを得ないときがある。ゆずれない想いゆえに、自ら険しい道を選ばざるを得ないときがある。
 むろん、そのときのお彩にまだ未来への明確な予感があるわけではなかったけれど、お彩は我が身のゆく先にいかにしても光を見出すことはできなかった。いや、愛する男との将来を思い描けないということ自体が、既に陽太との恋はけして幸せだけの上に成り立つものではないと暗示していたかもしれない。
 それは、お彩が陽太への想いを改めて確認したときでもあり、また、二人の恋のゆく方に漠然とではあるが不吉なものを感じた瞬間でもあった。
 不安に揺れるお彩を陽太が抱き寄せる。
 お彩は今度は素直に男に身を預けた。
―ただ、今はこの男(ひと)の傍にいられたなら、それだけで良い。
 お彩は眼を閉じたまま、そう思った。
 今この瞬間だけは陽太の胸に抱かれて、その力強い鼓動を確かめていたい。たとえ陽太がどこの誰であろうと、仮に―それは想像するだに耐えられないことではあったが―女房や子どもがいたとしても、今、自分の傍にいるときだけは、「陽太」以外の何ものでもない。お彩の知る、たった一人だけの陽太という男に違いないのだから。
 だから、今は惚れた男を一人占めして、二人だけの刻に頭までどっぷりと浸かっていれば良い。お彩はこの時、悟ったのだ。
 二人でいるときだけが真実なのだ、と。
 陽太との拘わりに関していえば、陽太の傍にいられるときのわずかな時間だけが夢ではなく、紛れもない「真実」なのだ。ゆえに、お彩は陽太の他の何も知る必要はない。ただ、一緒にいるだけの彼を感じれば良い。
 そう思いながらも、お彩は何故か哀しみを抑えることはできなかった。それは十八歳になったばかりの娘にとって、あまりにも苛酷な現実であり選択であった。
 確かな未来を思い描けないということが、人にとって、いかほど残酷であることか。人は先にわずかながらでも希望があるからこそ、今の苦しみや哀しみも乗り越えて生きてゆけるものなのだ。それを、この十八の娘は今から奪われようとしている。
 お彩の大きな瞳に涙が溢れた。
 静かな哀しみに満ちた静寂が辺りをひっそりと包み込んだ。
 陽太が視線をゆるりと動かした。
 その先には小さな朱塗りの鳥居があり、更に百度石が並んだ先にこじんまりとした御堂があった。絵馬堂である。小さな堂の扉は閉ざされていたが、格子状になった両開きの扉には無数の絵馬が掛けられていた。この辺りは花の頃でも、大抵は人気もなく森閑としている。あまたの絵馬には、それぞれの人の願いと祈りが込められている。何かその無言の祈りが感じられ、一つの強大な力となって圧倒してくるような雰囲気さえあった。
  陽太が何か言おうとしたその時、二人の背後からの叫び声が静けさを破った。
「手前、お彩ちゃんに何をしやがったんだ!?」
 お彩は烈しい怒声に、我に返った。
 陽太も眼を瞠って、突然の闖入者を凝視した。

 

 

 これより少し時間は前に遡ることになる。

 その頃、伊勢次は「花がすみ」の暖簾をくぐっていた。二日前、「花がすみ」からの帰り道、お彩を長屋まで送っていった夜の出来事が伊勢次は気になってならなかったからだ。
 あの夜、伊勢次はお彩から所帯を持たないかという問いの最終的な返事を得た。それは、伊勢次が思っていたように、否というものだった。お彩にも告げたように、断られたことで腹を立てたりしているわけでもない。確かに一年という日々は返事を待つ者にとっては短くはない。それは本音だ。
 だが、お彩はその間、伊勢次に気を持たせるようなふるまいは一度としてしなかった。いっそのこと、少しでも期待を持たせるようなところがあれば、伊勢次はたとえ一瞬でも幸運な勘違いをすることもできただろうし、結局は断ってきたお彩を責めることも恨むこともできた。
 多分、その間にもお彩の気持ちを知る機会は幾らでもあったはずだ。伊勢次の方から応えを求めれば、お彩は、はっきりと断ってきただろう。それが判っていながら、伊勢次がお彩に返事を迫らなかったのは、伊勢次がお彩の返事を聞きたくなかったからだ。お彩が伊勢次を失うのを怖れたのと同様、伊勢次もまたお彩を失うのを怖れたのだ。たとえ男女の色恋ではなかったとしても、二人が互いに必要としていることは紛れもない事実であった。
 皮肉なことに、二人が「必要」としているその意味は、それぞれ全く異なるものではあったけれど。
 だから、お彩に求婚を拒絶されたことそのものは、伊勢次は毛頭腹立ちはなかった。もちろん落胆はしたが、お彩ほどの器量よしで気立ての良い娘を端から自分のような男が望む方が分不相応というものだと思えば、悔しいが諦めはつく。
 しかし、伊勢次には、わだかまりがあった。それは、お彩が自分を拒んだ原因―いや、自分だけではなく、その他のお彩に相応しいであろうと思われるすべての男を拒絶する因となっている存在のことだ。あの男について、伊勢次は何も知らない。いかにも大店の主人ふうの物腰と威厳、存在感―、そして月のように美しい、江戸の町でも滅多とお目にかかれないどの美男であった。