小説
炎の王妃~月明かりに染まる蝶~
(原題 「哀しみの花~炎の生涯 張玉貞~」)
第二話 月の涙
-好きになった男が王様だったら、貴女はどうしますか?-
☆史実を元にしたフィクションです。作品の内容が史実や当時の政治情勢と必ずしも一致するとは限りません。あくまでも時代ファンタジーであることをご理解の上、ご覧下さいませ。
激動の時代を炎のように駆け抜け、波乱の生涯を懸命に生き抜こうとした少女がいた。
~特別尚宮となったオクチョンにとって、スン(粛宗)の妃としての生活が始まった。
スンの正妻である仁敬王后との確執、更にはスンの生母明聖大妃から向けられる烈しい憎悪にも拘わらず、オクチョンは懸命に理解して貰おうと努力する。
だが、オクチョンは王妃を呪詛しようとしたという罪で捕らえられ―。
スンとのしばしの別離、国王の唯一の〝寵姫〟となった彼女を数々の試練と困難が襲う。~
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温かな陽射しが降り注ぎ、まさに夢の世界のように穏やかで美しい光景であった。
「美しいな」
王妃が言うのに、オクチョンは頷いた。
「百花繚乱とは、まさにこのような景色をいうのでしょうか。まさに、夢のような風景です」
と、王妃がクスッと笑った。淑やかな外見に似合わぬお転婆な少女めいた仕草に、オクチョンは瞠目する。
「私が何か失礼なことを申し上げましたでしょうか、中殿さま」
王妃は首を振った。
「違う、そうではない。誤解するな。私が美しいと申したのは、張淑媛、そなたのことだ」
「私が、でございますか?」
予期せぬ話の展開に、オクチョンはますます当惑する。
王妃の口調は親しみのこもったものだった。
「国王殿下のご寵愛を長くに渡って頂く張淑媛。どのような女性なのかと興味深く考えていた。流石に美しく、また物腰も優雅で洗練されている。しかも殿下のお話では、外見だけでなく、その心もまたとなく美しく清らかな人であるとお聞きした。どうやら、お話は真のようであるな」
「私ごときに勿体ないお褒めの言葉、畏れ入ります」
「お世辞ではない。私自身がそのように感じたゆえ、申している」
オクチョンは控えめに応えた。
「私の方こそ、中殿さまの花のようなお美しさは眩しくて、まともに見られない想いが致します」
オクチョンの言葉に、王妃は笑った。
「若さなど所詮は一時のもの。時が過ぎれば、花は色あせ散るのが運命だ。さりながら、張淑媛。そなたの美しさは時を経てもなお色あせず輝いている。まさに、そなたの心の清らかさが外面に現れ、そなた自身が光り輝いているのではないか。だからこそ、殿下もそなたをずっと片時も離さず、ご寵愛なさっておいでなのであろう」
王妃が言い終えた時、向こうから楊尚宮が急ぎ足でやってくるのが見えた。随分と慌てた様子である。
「どうやら迎えが来たようだ。張淑媛、そなたとは一度、ゆっくりと話したいと思うていた。良ければ、明日にでもまた訪ねてきてくれ」
「中殿さま、お姿が見えないと思いましたら、このようなところにおいででしたか」
楊尚宮は王妃の背中越しに、オクチョンに鋭い一瞥をくれた。あまりにもあからさまな憎悪のこもった視線に、オクチョンの心はしんと冷えた。
「賤しい者と交わられては、中殿さまの体面にも関わりますゆえ、あちらに戻りましょう。大妃さまも中殿さまをお探しになっておられます」
「楊尚宮」
刹那、王妃の表情も声音も別人のように厳しくなった。
「賤しい者とは、誰のことを申しておる」
「それは」
楊尚宮は気まずげに押し黙った。
「万が一、張淑媛のことを申しておるなら、たとえ長年側に仕えたそなただとて許しはせぬぞ」
王妃は厳かにも聞こえる声音で続けた。この瞬間、わずか二十一歳の王妃の圧倒的な存在感に、ベテランの楊尚宮が完全に呑まれていた。
「張淑媛は国王殿下に私よりも長くお仕えしてきた功の者、後宮では当然、重んぜられるべき存在だ。尚宮ごときが軽んじて良い方ではない」
オクチョンは眼を見開いて王妃の言葉を聞いていた。王妃はオクチョンを〝軽んじて良い人〟とは言わず、〝方〟と敬称で呼んだのだ。
この若い王妃は並みの人物ではない。その瞬間、オクチョンは憎悪を露わにする楊尚宮や大妃よりも、この王妃の方が敵に回せばはるかに恐ろしい人だと悟った。
「今後、そのような無礼な物言いは一切許さぬ」
王妃は依然として厳しい声音で言い、オクチョンには微笑を向けた。
「張淑媛、お付きの者が失礼をした。それではまた後日、逢えるのを愉しみにしている」
後には、茫然としているオクチョンだけが残された。
風に乗って芳香が流れてくる。オクチョンはつと頭上を見上げ、凜として咲き誇る梅花たちを見た。
スンが迎えた二度目の妻仁顕王妃は、まさにこの梅花のような、凛としていながら優しい女性であった。
王妃が言うように、自分も王妃と話してみたいと思っていたのだ。こうして間近に接してみて、王妃が予想どおりのひとだと判ったからには、是非とも明日、中宮殿を訪ねてみようと思った。
ところが、翌日からオクチョンは軽い風邪を引き込み、病臥してしまった。微熱が数日以上続き、下がらない。その中に、ろくに食べもしないのに吐き下しも伴い、スンは随分と心配した。
内医院から特別に滋養のつく煎じ薬も賜ったものの、一向に病状は回復しない。オクチョン自身、何かの病に取りつかれたのかと不安を覚え始めたその矢先、一転して朗報がもたらされた。
病臥して十日め、
―畏れ多くも、張淑媛さまはご懐妊しておられます。
診察後、医官が平伏して告げたのである。
〝張淑媛懐妊〟の報はただちに大殿で執務中の粛宗に届けられ、更にはその日の中には宮殿中にひろまった。
微熱と吐き気のどちらの症状も妊娠初期のものと判り、医官が処方した薬のお陰で、下痢の方はすぐに落ちついた。
―あまりに下痢が続くと、妊娠初期は流産ということもございますゆえ。
御医が告げた言葉に、粛宗は蒼くなった。いつもは滅多なことで動じない若い王の狼狽えぶりに、古参の老臣たちは瞠目した。御前会議では父どころか祖父のような熟練した朝廷の臣下たちを相手に堂々と渡り合う青年王である。
やはり
―殿下の〝泣き所〟は張淑媛らしい。
と、チャン・オクチョンへの変わらぬ熱愛ぶりは後宮どころか宮殿中で再認識されたのだった。
何しろ先妻の仁敬王妃所生の第一王女が誕生後即日に亡くなって以来、七年ぶりの王室の慶事である。
―何としてでも、張淑媛の出産を無事済ませるように。
内医院の医官たちに厳命を下し、オクチョン専任の御医を数名決めた。
オクチョンの懐妊が判明したその日、スンは執務を済ませてから、飛ぶようにしてやってきた。
「七年ぶりに授かった子だ。どうか、これからは身体を労って健やかな子を産んでくれ」
スンは安静を取って横になったオクチョンの手を押し頂き、自分の頬に押し当てた。
その数日後、オクチョンは申尚宮を連れ、中宮殿に向かった。
花見の宴が催されたのは半月ほど前になる。オクチョンはそこで初めて粛宗の継室仁顕王妃と親しく話をする機会を得た。これまでも何度か王妃と近しく話してみたいと思い、実際、後宮に住まう者同士、その機会は何度かあった。けれども、中宮殿の筆頭尚宮である楊尚宮が邪魔をしたのだ。
現に昨日も楊尚宮がどこからともなく現れ、王妃をあたかも攫うように連れ去っていったのだ。楊尚宮は粛宗の前王妃仁敬王妃付きの尚宮でもあった。あの中年の尚宮がオクチョンを敵視しているのはもう十年以上も前からである。
折角、王妃と親しく話す機会を奪われてしまい、オクチョンは落胆した。が、王妃は別れ際、オクチョンに中宮殿を訪ねて欲しいと言った。つまり、オクチョンは王妃から正式な招待を受けたことになる。
これで中宮殿を訪ねる正当な理由ができた。もう、あの嫌な楊尚宮に邪魔立てされる心配もない。
オクチョンはできるだけ他人との間に好悪の感情は持たないように務めてきた。特に後宮に入り特別尚宮になって以来、上に立つ者として部下を私情で区別してはいけないと自分を戒めてきたのだ。また、第一印象だけで人を決められるものではない。