小説
炎の王妃~月明かりに染まる蝶~
(原題 「哀しみの花~炎の生涯 張玉貞~」)
第二話 月の涙
-好きになった男が王様だったら、貴女はどうしますか?-
☆史実を元にしたフィクションです。作品の内容が史実や当時の政治情勢と必ずしも一致するとは限りません。あくまでも時代ファンタジーであることをご理解の上、ご覧下さいませ。
激動の時代を炎のように駆け抜け、波乱の生涯を懸命に生き抜こうとした少女がいた。
~特別尚宮となったオクチョンにとって、スン(粛宗)の妃としての生活が始まった。
スンの正妻である仁敬王后との確執、更にはスンの生母明聖大妃から向けられる烈しい憎悪にも拘わらず、オクチョンは懸命に理解して貰おうと努力する。
だが、オクチョンは王妃を呪詛しようとしたという罪で捕らえられ―。
スンとのしばしの別離、国王の唯一の〝寵姫〟となった彼女を数々の試練と困難が襲う。~
*******************************************************************
唇を震わせるオクチョンに、大妃は事もなげに言い放った。
「その応えが知りたいか? それは、そなたがチャン・オクチョンだからだ。賤しい身分から承恩尚宮にまで成り上がり、息子の心を摑んで自在に操る妖婦。そのような女狐の仕立てた服を私が着ることは未来永劫ない」
オクチョンの背後に控えるミニョンは端座したまま、主君が受けた屈辱を我が身が受けたかのようにぶるぶると震えていた。今にも大妃に向かって飛びかかっていきそうな勢いに、傍らの申尚宮が眼顔で止めている。
「何をまた企んでおるかは知らぬが、中殿がいなくなった途端、しゃしゃり出ても無駄だ。そなたごときが中殿の代わりになれるとでも?」
オクチョンは涙ぐんで言った。
「そのような下心は一切ございません。ただ、大妃さまのお心が少しでも軽くなればと願ったのでございます」
大妃が叫んだ。
「その考えが思い上がっているというのだ! 私の立場を考えみよ。私は中殿と同じ、先王殿下が世子の時代に世子嬪(ひん)として入内し、正妃に立てられた。正室が側妾からの同情を受けて歓ぶとでも思うのか! 少しばかり主上に寵愛されているからと良い気になるでない。懐妊するまで中殿がそなたの存在にどれほど心悩ませたか、気鬱の病になり果てるまで、そなたがあの可哀想な娘を追い詰めたか、そなたは知るまい。中殿は我が姪であり、幼いときから手許で娘同様に育てた嫁であった。その嫁を苦しめ泣かせ続けたそなたを私が許すとでも? 憐れにも早死にした中殿に代わって私がそなたを終生憎み続けてやるわ」
「わ、私」
オクチョンは堪らず、うつむいた。堪え切れなかった大粒の涙がポトリと床に落ちて染みを作った。
「それとも、喪った公主の代わりに、そなたが主上の御子を産むとでもいうつもりか? 眩しいほどのご寵愛を頂きながら、一向に懐妊もできぬそなたが身ごもる日など来るのか?」
「大妃さま、それはあんまりの仰せにございます」
自分だって、スンの子を授かりたいと願ってきた。でも、神仏はいまだにオクチョンに大好きな男の子を授けてくれない。
大妃がオクチョンを睨めつけた。
「万が一、奇跡的にそなたが主上の御子を孕んだとしても、私はけして認めぬ。そなたを嫁とも、生まれた子をも孫とは絶対に認めぬゆえ、それだけは憶えておくが良かろう」
大妃がまた冷えた声で告げた。
「疾く去れ。そのような目障りな顔はこれ以上、見たくもない。賤しい者ゆえ、眼が穢れそうだ」
オクチョンは立ち上がった。それでも大妃に向かい、深々と礼をして辞した。どこをどう歩いて殿舎まで戻ったのか判らない。
両側から申尚宮とミニョンが支えていてくれなければ、とっくに無様に通路で転んでいただろう。
居室に入るなり、オクチョンはくずおれた。
「尚宮さま」
申尚宮は、この場にはいない。ミニョンがオクチョンの肩をそっと抱いた。
「大丈夫ですか?」
大丈夫なはずがない。それでも、オクチョンは健気にも微笑もうとした。主人として仕える者を必要以上に不安がらせてはいけないと思うからだ。
しかし、ミニョンはオクチョンの心など、お見通しだったらしい。ミニョンの方が声を詰まらせた。
「オクチョン、こんなときまで無理して微笑もうとして」
どうやら微笑もうとしたのは失敗したようである。
「無理に笑ったから、顔が引きつってる。美人が台無しよ」
ミニョンの戯れ言めいた物言いに、オクチョンは泣きながら笑った。
「ミニョンったら」
ミニョンは重たい雰囲気を少しでも和らげようと、わざと軽口を言ったのだ。
オクチョンの耳奥で、ひと月前、王妃に突きつけられた科白がまざまざと甦った。
―そなたの心配など無用。賤しい者が吾子のことを口にすれば、腹の子まで穢れる。疾く去れ、その目障りな顔を二度と私に見せるでない。
先刻、大妃から投げつけられた去り際の科白と面白いくらい同じではないか!
姪が姪なら、叔母も叔母といったところか。
オクチョンは泣いた。幼いときから、母には
―他人には敬意と誠意をもって接するように。
そう言われて育ったのだ。母はいつもオクチョンに語り聞かせていた。
―真心をこめて接すれば、いつか必ず理解して貰える日が来る。
でも、本当に母の言葉は正しいのだろうか。この期に及んで、オクチョンは疑問に思わずにはいられない。
オクチョンには間違っても下心などなく、ただスン―最愛の良人の母の気持ちを少しでも慰めたいと願い、心を込めて縫い上げた衣服だった。スン自身からも随分前に、〝母上に服を縫って欲しい〟と頼まれたことがある。今回、もちろん独断でなしたことではない。事前にスンにも相談し、スンは笑顔で
―それは手間を掛けるな。母上はとにかく、きらびやかなものがお好きゆえ、そなたの仕立てた衣服を歓ばれるだろう。
と、歓んだのだ。妻子を喪って以来、スンが初めて見せた明るい笑顔であった。それも嬉しく、オクチョンは張り切って布地を選ぶ段階から自分で拘わった。漢陽でも随一と呼ばれる布商人を殿舎に呼び、部屋中にたくさんの単布をひろげさせ、布を選んだのである。
―大妃さまのご年齢を考えれば、あまりに派手やかな色目もいけないし、かといって、沈んだ色ではお好みに合わないわね。
ミニョンや申尚宮も混じって、ああでもない、こうでもないと選んだのだが。
すべては裏目に出てしまった。気に入って貰えるどころか、大妃自身の手で心を込めて仕立てた服は引き裂かれ、これ以上はないというほどの暴言を受けた。
更に、オクチョンはある事実を知ってしまった。それは、亡き王妃が自分(オクチヨン)の存在を気鬱の病になるほど疎ましく感じていたということだ。大妃は言った。
―懐妊するまで中殿がそなたの存在にどれほど心悩ませたか、気鬱の病になり果てるまで、そなたがあの可哀想な娘を追い詰めたか、そなたは知るまい。
大妃の言うとおり、オクチョンは知りもしなかった。自分が存在することそのものが、誰かをそこまで追い詰めるなんて考えたこともなかったのだ。
オクチョンは涙ながらに言った。
「ミニョン、私は罪深い人間だわ」
「尚宮さま、どうして、そんなことを仰せになるのですか?」
ミニョンの問いに、オクチョンは応えた。
「大妃さまがおっしゃっていたでしょう。亡くなられた中殿さまが私のせいで気鬱の病になっていたと」
ミニョンは憤然と言った。
「あんな話、尚宮さまがお気になさる必要はありません」
「でも、私のせいで中殿さまは心の病気になったのよ? 自分が誰かをそこまで追い詰めるなんて、恐ろしいことだわ。そして、私は中殿さまの苦しみを少しも知らなかった。ただスンを好きだから、彼の側にいられれば幸せだと思っていた」
「尚宮さま、それが当たり前です。後宮で生きる女、特に国王さまの承恩を受けた女はたとえ中殿さまであろうが、ただの女官であろうが、皆同じです。殿下のご寵愛がそれぞれの立場を作ります。より愛された女君の方が時めくのは言わずもがなではありませんか。中殿さまは物心つく前から王妃になるべくして育てられた方ですから、当然、大勢の女たちと一緒に殿下にお仕えすることは覚悟なさっていたはず。なのに、その覚悟も忘れ果て、気鬱になどなる方が悪いと思いますよ」
暗に王妃としての覚悟と矜持を忘れた中殿の方が悪いのだと言わんばかりである。
「だけど、中殿さまのお気持ちも判るような気がするの」
「また、そのようなお人の好いことをおっしゃって」