彼との結婚を父に認めて貰いたい―逃亡した私は大きな賭に出た、愛する夫のために 小説氷華~恋は駆け | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
小説がメイン(のつもり)ですが、そのほかにもお好みの記事があれば嬉しいです。どうぞごゆっくりご覧下さいませ。

小説 氷華~恋は駆け落ちから始まって~

 

あの男と結婚したくないのでしょう?耳元で囁かれ、私は呆然とした。そう、私はまだこのとき、知らなかった。優しげに見えた彼が心底出考えていた怖ろしくて淫らな企みを。

 

 

「判ったよ。そういうことなら、味方になろうじゃないか」
 女中は頷き、両手に持っていた小卓を眼で指した。
「じゃあ、早速、頼むよ。これを客間に運んで」
「えっ、私なんかが運んでも良いの?」
「女中頭さまに見つかったら大変だけど、今はお屋敷中が大忙しだから、まず見つからない。大丈夫だよ」
「判った、おばさんの言うとおりにする。どうしたら良い?」
「簡単なことさ。この小卓を客間に持ってくだけ」
「今夜は忙しいの? あの若さまがさっき来た時、お客が大勢来るんだとか何とか言ってたけど」
「そうだよ。今日が若奥さまのお誕生日だっていうんで、お祝いにお客がわんさか来てるんだ」
「若奥さま?」
 サヨンが不思議そうに訊くと、女中は小声で教えてくれた。
 沈勇民が去年、迎えたばかりの妻が今の中(チユン)殿(ジヨン)、つまり国王の后の妹であること、勇民は美しいが気位の高いこの妻を持て余し、結婚してから余計に女漁りが烈しくなったこと。
「まっ、若奥さまはご実家や姉君さまのご威光をを笠に着て若さまを馬鹿にしてばかりだから、若さまが若奥さまに寄りつかなくなるのも無理はないと思うよ」
 それで、今夜は大勢の祝い客が来るため、屋敷内がざわつき、女中も下男も飛び回っているのだという。
「客間には、どんな方がいらっしゃるの?」
 無邪気に訊ねれば、声をなおいっそう潜めて〝義(ウィ)承(スン)大君(テーグン)さま(マーマ)だよ〟と教えてくれた。
 義承大君というのは現国王の実弟で、町の外れに邸宅を構えている。都でも名の通った風流人で政治よりも書画や管弦に親しみ、自身も笛の名手として知られていた。かねてから田舎で自然を愛でながら暮らすのが夢で、今から数年前、兄王に頼み込んで、この鄙びた地方都市に移り住んだのだそうだ。
「義承大君さまは国王さまの弟君で、若奥さまは王妃さまの妹君だからね。だから、今夜もお祝いにお見えになってるんだ」
 と、向こうから再び呼び声が聞こえた。今度は先刻より更に苛立しげに焦れている。
「マンソン、マンソン! この猫の手も借りたいほど忙しいってときに、どこで油を売ってるんだろうね。全く、肝心のときに役立たずなんだから」
 女中がしかめ面で肩をすくめた。
「ああ、いやだ、いやだ。それじゃ、頼むよ」
 彼女は慌てて〝はい、はーい〟と返事しながら駆けていった。
 この人の良い女中は、あまり頭の回転が良くないようだ。サヨンを閉じ込めた部屋から出して、逃げるとは考えないのだろうか。
 もちろん、サヨンは逃げるつもりだ。〝ごめんなさい〟と心で詫びながら、サヨンは客間を目指した。ここで逃げた方が利口なのは判っていたけれど、せめて一つくらいは約束を守りたかった。
 教えられたとおりに廊下を真っすぐ進んでかなり歩くと、扉越しに明かりが洩れている室があった。
「―大君、時は満ちました。いよいよ決起するときが来たのです」
「そうは申しても、兄上(ヒヨンニム)が私を疑っておいでだというこのときに決起などしても、果たしてうまくゆくだろうか」
「国王さまが疑惑をお持ちだからこそ、今なのです」
「と申すと?」
「計画を早めるのですよ。目下、三日後の吉日を考えております」
「さりながら、戦支度が間に合わないのではないか? 予定では三ヶ月後のはずだったのだぞ?」
「お任せ下さい。武器はすべて整っておりますゆえ、いつでもご用意できる状態にあります。このようなこともあろうかと準備を急がせました」
「流石は清勇だ。これからも頼りにしておるぞ。私が王位についた暁は、都に呼んで領(ヨン)議(イ)政(ジヨン)に引き立ててやろう」
「畏れ多いことにございます」
「それよりも大君さま、一つだけ懸念がございます」
「うむ、懸念とは」
「兵士たちの履く草鞋が足りないのです」
「草鞋とな」
「はい、武器などは少しずつ集めましたので、早くに必要数を確保できたのですが、春先にはこの地方はまだ大雪が降ることがあり、履き替え用として草鞋は集められる限りたくさんの数を確保しておいた方がよろしいでしょう。とすれば、現在はまだ半分ほどしか集まっておりません」
「なに、半分だと? 一体、どうするのだ?」
「何せ急に予定を早めねばならなくなりましたので」
 物陰ですべてのやりとりを聞いたサヨンは、小卓をそっと廊下に置いた。話はまだ続いているようだが、これ以上ここにいて、危険に身をさらす必要はない。
 こんな怖ろしい話を聞いた後、あの密談の場に酒肴を届けるなどできるはずがない。だがと、サヨンは考えた。これは、もしかしたら、自分とトンジュにとって千載一遇の好機になり得るかもしれない。
 廊下をもう少し先に進むと、いきなり吹き抜けになった。しめたと小走りに走ると、やがて建物の正面まで来た。庭に面しており、短い階(きざはし)がついている。つまり、ここから建物に出入りするのだ。
 外から見て判ったことだが、この建物は母屋ではなく、庭を隔てて建てられた独立した建物―離れのようなものだ。だからこそ、密談に用いたり、攫ってきた娘を監禁しておくのには格好の場所なのだろう。
 勇民の妻の誕生祝いの祝宴は母屋で行われているに違いない。ここから母屋まではかなりの距離があるため、賑わいは離れまでは伝わってこない。
 サヨンは階を駆け下り、庭を横切った。むろん、極力、足音を立てないように注意を払った。幸いにも広大な庭はひっそりと静まり返り、まだ春浅い夜中に庭に出ようという酔狂な客はいないようだった。
 闇に沈む庭を一人で走りながら、サヨンは二ヶ月前にも似たような経験をしたのを思い出していた。コ氏の屋敷から脱出したときも、こうして庭を走った―。でも、あの夜は満月も出ていたし、何よりトンジュがついていてくれた。
 トンジュ、トンジュ、サヨンは心の中で呼びかけた。トンジュと手に手を取って都を出てから、もう何年も経ったような気がする。自分を攫うように連れ出した男を一時は烈しく憎み、拒絶した。だが、彼はいつしかサヨンにとって大切な男になっていた。
 これは、もしかしたらサヨンにとって生涯最大の賭けになるかもしれない。愛する男のためにも、是非とも上手くやらなければ。サヨンは強く言い聞かせた。
 庭を横切ったサヨンは塀を乗り越え、無事に外へ出た。例によって塀を乗り越えるのにはひと苦労したけれど、これから立ち向かう試練に比べれば、何ともなかった。
 サヨンが真っすぐに向かったのは履き物屋だった。今日の昼間に目抜き通りを通ったゆえ、履き物屋の場所はちゃんと憶えている。この店は露店ではなく、小さいながらも、ちゃんと店舗を構えた店だ。
 当然ながら、真夜中なので戸は固く閉ざされている。サヨンは夢中で戸をたたいた。ほどなく眠そうな顔をした主人らしき男が扉を細く開けた。
「何だァ? こんな夜中に」
 いかにも不機嫌そうな主人に、サヨンはまず真夜中に押しかけた非礼を詫びた。
「儲け話があるんです」
 サヨンは密談の内容や義承大君の名は一切出さず、ただ三日後の早朝までに草鞋をできるだけたくさん手に入れたいのだと伝え、もし、依頼主の望みどおりになったら、大金が支払われることになるだろうと言い添えた。
「できるだけたくさんと言ったってねえ」
 四十ほどの主人は大あくびしながら頭をかいた。
「お願いです、こちらのお店に置いてある在庫の草履をすべて譲って頂けませんでしょうか」
「それで? 見返りは何だい。ただ大金が転がり込むだなんて夢のような話は通用しないぞ。店の在庫をすべて洗いざらい出すんだ。こっちもそれなりの物を貰わないと損をする」
 流石に長年、商売をやってきただけはある。
 サヨンは頷いた。
「私が手にした金額の三分の一というのはどうでしょう?」
「ええっ、三分の一かい、そりゃないだろう」
 主人はムッとした表情で、首を振った。
「駄目だ、生憎だが、他を当たってくれ」
 奥に引っ込もうとするのに、サヨンは慌てて叫んだ。
「ご主人、この家には病人がおられませんか?」
 主人が不審そうな眼でサヨンを見た。
「何だ、他人の家のことを調べたのか?」
「違いますよ、今日の昼間、このお店の前を通りかかった時、ご主人が隣の筆屋のおかみさんと病気のお母さんのことを話していたでしょう。私はそれを聞いていたんです」
「ふん、それで、お前さんがお袋の病を治せるとでも?」
 サヨンは勢い込んだ。
「私の良人は薬草に関して様々な知識を持っています。一度だけですが、名医と呼ばれるお医者さまが見放した病人の生命を救ったことがあります。きっと、お母さんの病を治す手立ても見つけられると思うのです。私が得た全額の三分の一と、それから、お母さんを無料で診て適切な薬を差し上げる、その二つでどうでしょうか?」
 主人はしばし思案顔だったが、頷いた。
「良いだろう。うちにある草鞋でお袋の生命が助かるなら、安いものだ。頼むよ。ただし、お前さんの言葉が真っ赤な嘘だったり、約束を守らなかったりしたら、すぐに役所に突き出すぞ、それで良いんだな?」
 はい、と、サヨンは力強く頷き、深々と頭を下げた。二日後の夜に草鞋を取りにくると約束して、履き物屋を出た。
 それから足早にトンジュの待つ山へと向かったのだった。