貴族の放蕩息子にさらわれた私―私はここにいるの、助けて。夫に助けを求めたが 小説氷華~恋は駆け落 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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小説 氷華~恋は駆け落ちから始まって~

 

あの男と結婚したくないのでしょう?耳元で囁かれ、私は呆然とした。そう、私はまだこのとき、知らなかった。優しげに見えた彼が心底出考えていた怖ろしくて淫らな企みを。

 

 

 目抜き通りを外れると、周囲の風景は打って変わった。路地裏が伸び、小さなみずぼらしい家がぽつぽつと並んでいる。トンジュの建てた家の方がまだ見られるほど粗末な住まいである。
 路地裏に脚を踏み入れた刹那、サヨンは急に背後から羽交い締めにされた。
―なに、一体、どうしたの?
 烈しく暴れたが、拘束しようとする相手は男、しかもかなりの巨漢らしく、サヨンが少々刃向かったくらいではビクともしない。
 男はこういったことには手慣れているのか、サヨンの口に猿轡をかませると、手足を縛り上げ大きな袋に放り込んだ。袋ごと担ぎ上げられ、荷馬車に乗せられたようだ。
 砂利道を通る車輪の音と揺れがサヨンの置かれている状況を伝えてくれた。
 袋から出されたのは、それから半刻くらい経てからのことだ。すぐに猿轡は取られたが、手足の縄は外して貰えなかった。
 サヨンが連れてゆかれたのは、どこかのお屋敷だった。荷馬車に乗っていた間はほんのわずかだ。時間から考えて、まだ町の中にいると思って間違いはないだろう。
 サヨンは狭くて暗い部屋に閉じ込められた。一日中、陽もろくに差さない部屋である。以前は物置として使用していたのか、掃除もろくにしておらず、埃だらけ、挙げ句にはネズミまで走り回ってサヨンを愕かせた。
 薄暗い部屋でも、太陽の動き程度は判る。日没が過ぎて宵の口になった頃。
 サヨンは壁にもたれ、両膝を抱えて丸まっていた。つい先刻、三十半ばくらいの女中が小卓を運んできたばかりだ。小卓の上には結構なご馳走が並んでおり、漢陽で暮らしていた頃の豪勢な食事を思い出したほどだ。
 この扱いを見ても、自分が粗略に扱われているのではないと思ったが、では何故、こんなことになったのかは皆目見当もつかなかった。
 久しぶりのご馳走ではあったが、当然ながら、食べる気にはなれなかった。今頃、戻ってこないサヨンをトンジュが心配しているに違いない。あの男のことゆえ、町までサヨンを探しにくるかもしれない。無茶をすれば、また傷口が開いてしまう。
 トンジュのためにも一刻も早くここを出たい。しかし、ここがどこで、何の目的で自分が連れてこられたのかすら判らない状況では、下手に動くのは賢明とはいえない。
 せめて手がかりでもあればと思ったけれど、閉じ込められたままの身では知りようもなかった。ところが、状況が動き始めた―しかも急転化―のである。
 突然、眼前の引き戸が両側から開いた。サヨンは膝に伏せていた顔を弾かれたように上げた。自分の前に立つ男の顔を茫然として見上げた。
 後ろ手に手を組み、偉そうに立っているこの男の顔を忘れるはずもなかった。
「私の顔を憶えているか?」
 相変わらずきらびやかなパジチョゴリに身を包み、鐔広の帽子は顎の部分に紫水晶を連ねたものが垂れ下がっている。もっとも、その派手な衣装がちっとも似合ってない、むしろ貧相な容貌を余計に強調しているのを当の本人は全く理解していない。
「何のつもりで、こんなことを?」
 サヨンは気取り返ったアヒルのような男を下から睨んでやった。
 若い男―沈勇民は薄い胸を傲然と反らした。
「フン、身の程知らずの生意気な女め。まあ、良い。その美貌と私をさぞかし愉しませてくれるであろう身体に免じて、今のところは大目に見てやろう」
 勇民はサヨンの身体を無遠慮にじろじろと眺め回す。まるで衣服の下の素肌をなで回されているような嫌らしい視線がおぞましい。
「お前の亭主にもたっぷりと先日の礼をしてやらねばな。お陰で今もこのザマだ。今宵は大勢の来客があるというに、ええい、口惜しい」
 勇民はさも悔しそうに歯がみする。なるほど、妙に生白い顔のあちこちにまだアザが残っている。半月前、トンジュに殴られたときのものだろう。両眼の周囲に青あざがあるので、子どもの頃に絵本で見た〝大熊猫〟に似ている。大熊猫というのは何でも清国に生息する珍しい動物だという。真っ白な毛並みに耳や手足、身体の一部分だけが黒く、外見が可愛い割には性格は獰猛なのだとか。
 もっとも、絵本の挿絵は愛らしかったが、こちらの大熊猫は可愛いどころか不気味で滑稽だ。
 勇民がせかせかとした足取りで近づき、サヨンの顎に手をかけてクイと仰のけた。
「ふむ、やはり見れば見るほど、良い女だ。あのような貧しい若造に与えておくのは勿体ない。いかに美しき玉とて、それなりの場所を与えられねば、本来の美しさを発揮して光り輝くことはできぬ。私の側妾になれば、その雪肌に映える極上の衣(きぬ)と宝飾品を与えようぞ。今宵は客が多く多忙ゆえ、相手をしてやれぬが、明日の夜は愉しみにしておくが良い」
 全く、よく喋る男である。
「何もかも脱ぎ棄てた姿に、きらめく玉の首飾りと腕輪だけを身につけたそなたの姿。さぞ美しかろう」
 その様を想像しているのか、嫌らしげな眼でサヨンを見てから、満足そうな表情で笑った。
 勇民は一人で喋るだけ喋ると、さっさと出ていった。扉が元どおり閉まった後、サヨンは汚物に触れたように、勇民の触った顎を手のひらでごしごしと拭った。
 自分こそが世界の中心だと自惚(うぬぼ)れきっているあの増上慢! あの男はトンジュを〝貧乏な若造〟と言ったが、あの男こそ、みっともないくらい着飾った貧相なアヒルではないか。苦労して難しい学問を身につけ、日々汗を流して働くトンジュの足下にも寄れやしない。
 何の能もなく、ただ日々を遊んで暮らしているような腑抜けにトンジュを罵倒されたのが腹立たしくてならない。
 更にそれから幾ばくかの刻を経た頃になって外側から厳重にかけてある鍵が開く音が聞こえてきたかと思うと、今度は先刻の女中が再び顔を覗かせた。
「おや、何も食べてないじゃないかい」
 女中は大袈裟に愕いた。
「それにしても、うちの若(トル)さま(ニム)にも困ったものだよねえ。女好きだといったって、人間なんだから、節操ってものくらい持ち合わせてると思うのに、どうやら、奥さまのお腹から出てくるときに、それをどこかに落っことしてきちまったみたいだ」
 どうも、木彫り職人の女房といい、この女中といい、この町にはお喋り好きの女が多いらしい。
 女中は、サヨンの視線にやっと気づいた様子だ。
「あら、いやだ。あたしったら」
 女中がわざとらしい咳払いでごまかした。
「おばさん、ここの若さまって、そんなに悪さばかりしてるんですか?」
 訊ねると、女中は訳知り顔で首を振った。
「さ、さあね。お仕えするお屋敷の内輪のあれこれを無闇に喋るもんじゃないって女中頭さまがよく言ってるから」
 とはいえ、彼女の顔には〝本当は喋りたい〟と書いてある。そこで、サヨンは作戦を変更することにした。
 その時、運良くというべきか、向こうから大きな声が響いてきた。
「萬娍(マンソン)、萬娍、」
「はーい、今、行きます」
 マンソンと呼ばれた女中は露骨に顔をしかめた。
「全く、人使いが荒いったら、ありゃしない。ここのお屋敷は若さまだけじゃなく、女中頭まで常識ってものがないんだから、やってられやしない」
 今だ、と、サヨンは咄嗟に両手で顔を覆った。しくしくと世にも哀しげな声で泣く。
「あんた、何? いきなりどうしたのよ」
 人の好さそうな女中を騙すのは気が引けるが、この際、やむを得ない。
「おばさん、私はこんなところにいつまでもいるわけにはゆかないの。家には病気で寝たきりのお母さんとまだ小さな妹たちがいるから、私が早く帰ってやらないと、家族が飢え死にしてしまう」
「まぁ、何てこった。若さまも酷いことをなさるもんだ。よりにもよって、そんな家の娘を攫ってくるなんて」
 女中は早くもサヨンの偽身の上話にほだされたようで、眼を赤くしている。
「あんたが働いて、家計を支えているの?」
 サヨンは泣く真似をしながら、頷いた。
 と、サヨンはしゃくりあげ、上目遣いに女中を見上げた。
「おばさん、私、何でもおばさんの言うことを聞くから、味方になってくれる?」
 女中はギョッとした顔で言った。
「だ、駄目だよ。逃がしてくれって頼まれたって、そいつはできない相談だからね。あたしにも亭主と子どもがいるんだ。一時の情にほだされて、あんたを逃がしたことがバレたら、若さまにどんな酷い罰を食らうことになるかしれやしないからね」
 サヨンは首を振った。
「大丈夫、おばさんに迷惑はかけないから。ただ、私がここのお屋敷にいる間、味方になってくれるだけで良いの。その代わり、何でもおばさんの頼みをきいてあげるわ」