小説 氷華~恋は駆け落ちから始まって~
あの男と結婚したくないのでしょう?耳元で囁かれ、私は呆然とした。そう、私はまだこのとき、知らなかった。優しげに見えた彼が心底出考えていた怖ろしくて淫らな企みを。
岩に大の字に転がった勇民は恐怖のあまり、血走った眼をカッと見開き、震えていた。サヨンですら気の毒になったほど、顔中がアザだらけになっている。唇と鼻から血が流れていた。
「行くぞ」
トンジュはサヨンの手を引くと、黙って歩き出した。
しばらく歩いたところでトンジュは立ち止まった。自分の上着を脱いで、サヨンに羽織らせてやる。
「危ないところだった」
トンジュがぶっきらぼうに言う。
サヨンはトンジュを真っすぐに見た。
「トンジュが来てくれなかったら、どうなったか判らない。本当にありがとう」
「礼を言われるほどのことじゃない。何だか妙に心が波立って、不安で堪らなくなったんだ。虫が知らせたのかもしれない。後を追いかけてきて良かったよ」
照れたように頬を少し紅くし、トンジュは無愛想な声で応えた。
「本当に何もなかったんだな」
念押しされ、コクコクと頷く。
トンジュの愁いに満ちた顔に漸く安堵の表情が浮かんだ。
トンジュがサヨンを引き寄せる。その抱擁にはむろん性的な匂いは全く感じられなかったし、トンジュがサヨンをこうやって抱きしめるのは実に久しぶりであった。半月ほど前から、彼はサヨンに全く近づかなくなっていたから。
トンジュはサヨンの髪に頬をすり寄せ、二度と離さないと言わんばかりに強く抱いた。
サヨンは顔を上げ、彼の愁いを帯びたまなざしを受け止めて、それ以上、何も言えなくなった。
「良かった。もしサヨンの身に危害を加えていたら、あいつらを纏めて漢江(ハンガン)にぶち込んで、鰐のえさにしてやる」
本気でやりそうなトンジュに、サヨンは笑った。
「ねえ、余計なことかもしれないけど、漢江に鰐なんているの?」
「さあな、俺も聞いたことがない。鰐でも鮫でも良いんだよ」
ますます赤らんだトンジュを見て、サヨンは明るい笑い声を上げた。
「サヨンの笑ったところ、久しぶりに見たよ。っていうか、俺と一緒に暮らし始めてから、笑顔なんて、ろくに見たことがない。漢陽の屋敷にいた頃は、いつも太陽みたいに笑っていたのに」
トンジュは首を振った。
「やっぱり、お屋敷を連れ出したことは、お前にとっては良くなかったのかもしれないな」
「トンジュ?」
「サヨンは知らなかっただろうが、俺は毎日、お屋敷中、お前の姿を探してたんだぜ。仕事が立て込んでるから、追いかけ回してる暇はないが、何をしていても、どこか近くをお嬢さまが通りかからないかとばかり考えてた」
トンジュが溜息をつく。
「考えてみたら、俺が大行首さまに難しい文字を教えて頂いたのも、サヨンにふさわしい男になりたいと思ったからだろうな。でも、俺の見た夢は結局、分不相応だった。幾ら立派になろうとしても、住む世界は変えられない。近頃、そんなことを考えるようになったよ」
そのときのトンジュの声が何故かひどく淋しげに聞こえたのだった。
夕刻になった。サヨンは近くの池まで水を汲みにいった。いつもトンジュは自分がやると言うのだけれど、小さな瓶一つ運ぶくらいはサヨンにだってできる。サヨンはそう言って、自分でできることは自分でやっている。
小さな瓶はすぐに一杯になった。頭に専用の輪を乗せ、もう大分馴れた手つきで瓶を乗せて運ぶ。家の前まで戻ってきた時、トンジュが表で薪割りをしているのが眼に入った。
トンジュは片肌脱いでいるにも拘わらず、汗をかいている。三月も半ば近くになり、日中は幾分春めいてきた。汗をかく質であれば、力仕事に精を出せば汗もかくだろう。
小麦色の膚を汗の玉が流れ落ちている。逞しい身体は引き締まり、余分な肉は全くない。半月前、あの腕に抱かれたのだ。
そう考えると、何か落ち着かない気持ちになった。今から思い出せば、あの折、トンジュがサヨンに与えたのはけして苦痛だけではなかった。むろん、破瓜の痛みは並大抵ではなかったし、サヨンの意思を無視して強引に抱かれたことには抵抗はある。
が、媚薬を使われたにせよ、あのときの自分の乱れ様は普通ではなかった。トンジュに抱かれ、たった一日の中に数え切れないほど何度も絶頂に達した。あのときの自分を思い出す度に、消えてしまいたいほどの羞恥を憶えてしまう。
もし、またあの腕に抱かれたら―、夜毎、極楽に遊ぶようなめくるめく忘我の境地にいざなわれるのだろうか。
そこまで考え、サヨンはハッと我に返り、頬を赤らめた。自分は一体、何というはしたないことを考えたのか。
と、頭上がふっと軽くなった。愕いて見上げると、トンジュが瓶を抱えて立っていた。
「お帰り。重くはなかったか?」
「大丈夫よ。いつも言ってるでしょう、これしきのこと、たいしたことではないわ。やせっぽちだけど、力はあるのよ、私」
力こぶを作る真似をして見せると、トンジュがプッと吹き出した。
「顔が紅いが、どうかしたのか?」
気遣わしげに訊ねられ、ふるふると首を振る。
「何ともないけど」
「どれ」
トンジュの手が伸びてきて、サヨンの額に触れた。
「確かに熱はなさそうだな」
サヨンは眼を瞠った。トンジュの逞しい身体がすぐ眼前にあった。うっすらと毛に覆われた均整の取れた身体から、かすかな香りがする。それは山の森を吹き渡る風の匂い、或いは冬なおたっぷりと青葉を茂らせる大木の香りであった。
知らぬ間に、サヨンは眼を閉じて、うっとりと男の香りに浸っていた。
「サヨン? どうした、やっぱり変だぞ?」
トンジュの声が耳を打ち、サヨンは眼を開いた。
「あ、ごめんなさい。本当に何でもないの、気にしないで」
サヨンは慌てて逃げるようにその場を離れた。これ以上、トンジュの剥き出しになった逞しい身体をまともに見ていられなかった。
夕飯をいつもより早く終え、サヨンは部屋の隅で針を動かしていた。先に繕い物を済ませて、今は気散じに刺繍をしている。
三月の初め、トンジュは町に薬草を売りにいった。そのときに知り合いの絹店の主人から、半端物の絹布を格安で譲って貰ってきたのだ。頼んでいた刺繍道具もちゃんと買ってきてくれた。
―こんな小さな端切れでは到底、服なんて縫えないだろうが、袋でも何か縫って使うと良い。
そう言って渡してくれたのだ。
サヨンの側には繕い終えたばかりのトンジュのパジとチョゴリが一枚ずつ畳んで置いてある。
巾着は簡単にできるので、数個纏めて作った。刺繍はそう手の込んだものではないが、できるだけ華やかに見えるものをと思い、四季それぞれの花を挿すことにした。春の梅、夏の紫陽花、秋の紅葉、冬の椿。これは多少日数はかかるだろうけれど、刺繍をするのは久しぶりなので胸が躍る。漢陽にいた頃は、一日の大半を刺繍ばかりして過ごしていたのだ。
まずは春の梅だ。これは丁度、今の季節にふさわしい図柄である。が、実のところ、作業は全くと言って良いほど捗らなかった。というのも、サヨンは針で指を突いてばかりで、大切な巾着に危うく血を付けてしまうところだった。
サヨンは自分の気持ちを持て余していた。若い両班の男に心ならずも触れられたのは、まだ朝の出来事だ。思い出してしまうのは、そのときのことだった。あの時、見知らぬ男に少し触れられただけでも、嫌で堪らなかった。
だが、どうだろう。トンジュに先刻、額を触れられても一欠片(ひとかけら)の嫌悪感も感じなかった。河原で抱きしめられたときも平気だったし、怒り狂ったトンジュを宥めるためとはいえ、自分からトンジュに抱きつきさえしたのだ。
もしかしたら、自分がトンジュをあれほど拒んだのは〝女になる〟ことへの本能的な恐怖があったから? 母親のいないサヨンは恋には奥手で、男女のことに関する知識は皆無だった。純真無垢といえば聞こえは良いが、要するに無知だったのだ。
トンジュに抱かれた時、彼が口にしていた話の半分も理解できなかった。徹底的に疎いサヨンにとって、初めての体験、男を受け容れるという行為は途轍もなく怖ろしいものに思えてならなかった。具体的なことを知らないがために、恐怖はいや増した。
サヨンが彼を拒み続けたことは、多分、彼への想いとは無関係といって良いのだろう。
―もしかして、私は彼を好きなの?
突如として目覚めた想いは、しかしながら、急に湧いてきたものではなく、かなり前から芽生えていたのかもしれない。第一、このことはトンジュも言っていたけれど、大嫌いな男ならば、共に逃げようと言われても絶対に逃げたりしなかった。