この森は深くて危険すぎる。間違っても俺から逃げようなんて思わないで下さいね。小説氷華~恋は駆け落 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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小説 氷華~恋は駆け落ちから始まって~

あの男と結婚したくないのでしょう?耳元で囁かれ、私は呆然とした。そう、私はまだこのとき、知らなかった。優しげに見えた彼が心底出考えていた怖ろしくて淫らな企みを。

 

 

 

 焔を宿したトンジュの瞳は、彼自身の瞳の底で焔が揺らめいているように見えた。その燃えるような烈しいまなざしでひたと見つめられ、サヨンは居たたまれなくなった。
 トンジュのたったひと言で、あのときの少年との〝再会〟の歓びも一瞬でしぼんだ。
 今や懐かしさよりも当惑の方が強かった。
 トンジュの気持ちは、あまりに重すぎる。〝好きだ、惚れている〟と何千回耳許で繰り返されても、今のサヨンにはただ重荷になるだけだった。
 トンジュを嫌いというわけではない。しかし、ソン・トンジュという男は、自分の欲しいものを手に入れるためには、どこまでも計算高く冷徹になれる。
 しかも、つい今し方、トンジュはこれまでの紳士的然とした態度を豹変させ、サヨンに飢えた獣のように襲いかかってきたのだ。サヨンがどんなに泣き叫んで懇願しても、途中で止めてはくれなかった。
 もし、脚の痛みがぶり返さなかったら、今頃、自分はどうなっていたことか。その先を考えただけで、怖ろしさに気を失いそうになった。
―私はトンジュが怖い。
 サヨンは、この男が怖ろしかった。穏やかで、どこまでも優しいかと思えば、次の瞬間には牙を剥き出しにして喉笛に食らいつき、サヨンのすべてを奪い尽くそうとする。
 そのあまりにも違いすぎる人格の差も、自分を見つめるときに感じる欲望にぎらついたまなざしも―どれもが怖かったし、嫌だった。
 真昼間だというのに、ここはあまりにも薄暗い。
 名前すら知らない樹々は、冬でもなお青々とした葉をたっぷり茂らせている。まるでサヨンにのしかかってくるように立ちはだかり威嚇する。まさにトンジュの存在そのもののようだ。
 静寂が無限に続くどこかで、小鳥が啼く声が聞こえた。

 

 翌日から、サヨンは熱を出して寝込んだ。どうやら、ここに到着したその日、異常な熱さを感じた原因は、それだったようだ。
 無理もない、都を出て以来、サヨンにとってはあまりにも心身に負担をかける出来事が多すぎた。
 信じていたトンジュの裏切り、突然の豹変。あまつさえ、遠い道程を強行軍で旅を続け、この山上の森に辿り着いた。サヨンの身体も心も疲弊し切っていた。
 サヨンは十日近くもの間、夢と現(うつつ)の狭間をさ迷った。その間中、ずっと熱に浮かされていた彼女の髪を優しく撫で、救いを求めて差し出した手を握ってくれたひとがいた。
 この人里離れた森の中にはサヨンとトンジュしかいない。だとすれば、サヨンの側にずっと付いていてくれたのはトンジュしか考えられなかった。
 恐らく、トンジュの望みどおりに素直に身を委ねれば、彼はサヨンにとって優しいだけのトンジュに戻るに違いない。
 が、サヨンは自分の気持ちを偽れない。サヨンはトンジュが怖いのだ。側に来ただけで膚が粟立つほど恐怖感すら感じている。そんな男に躊躇いもなく抱かれるのは難しい。
 サヨンが床に伏している間に、トンジュは、ここで暮らしてゆくための様々なことを行ったらしい。まず愕いたのは、家が出来上がっていたことだった。
 家といっても、ひと間しかない粗末なものである。それでも、煮炊きのできる小さな厨房と板敷きのちょっとした広さのある部屋が付いており、暮らし心地は悪くはなかった。
 天幕にいたのは寝込んでから数日間だけで、家が完成するなり、トンジュはサヨンを家に移した。高熱を発している身体に、夜露が十分に凌げない天幕はふさわしくないと判断し、自分は寝食の時間を削ってでも家の完成を優先させたのだった。
 寝込んで十一日め、サヨンはやっと熱も下がり、外に出ることができた。
 トンジュはまだ家で寝ていろと煩いのだけれけど、サヨンが勝手に動き回っているのだ。
 サヨンが回復すると、トンジュは毎日、出かけるようになった。大抵は森に出て、薬草を採ったり、狩りをしたりする。朝早く出かけ、陽暮れ刻に帰ってくるのが常だった。
 鹿肉や兎肉、猪肉はその日の夕飯の何よりのご馳走になった。サヨンは実を言うとー、あまり料理が得意ではない。しかし、トンジュはサヨンが拵えるどんな料理でも―もし、それが料理と呼べる代物であればの話だが―、歓んで食べた。
 サヨンの手にかかると、折角のご馳走になるはずの食材が台無しになってしまう。トンジュは黒こげになった肉のかたまりを見ても、ただ笑っているだけだ。
「ごめんなさい」
 しゅんとして肩を落とすサヨンの頭をくしゃくしゃと撫で、水で炭のような肉塊をようよう飲み下している。
 あまりにそんなことが続くので、ついにはトンジュが自分で料理の腕をふるうようになった。
 彼の腕の方がよほどサヨンよりも上だ。その事実に、サヨンは大いに傷ついた。
「私ってば、本当に何もできない役立たずね」
 溜息をついて落ち込んでいると、トンジュが微笑んだ。
「これからゆっくり憶えていけば良いですよ。サヨンさまなら、何だって、すぐに憶えてできるようになりますから」
 慰めとも励ましとも取れる言葉をくれる。
 この頃のトンジュは凪いだ湖のように穏やかで、サヨンを温かく見守ってくれる。サヨンに対する態度は異性というよりも兄が妹に示す親愛の情に近かった。
 サヨンは思った。
 もしかしたら、このまま自分たちは今の心地よい関係を続けてゆけるのではないか。
 男だとか女だとかの区別なく、異性だという意識を持たず、人生の協力者、或いは友達のような関係を作り上げてゆけるかもしれない。
 かすかな希望が見え始めていた。
 しかし、穏やかに流れているように見える日々の中、時にトンジュがあの瞳―燃えるようなひたむきさで自分を凝視していることがあった。
 あの思いつめたまなざしを意識する度、サヨンは怖くなって、トンジュの眼の届かない場所に逃げた。
 二人が共に暮らし始めて、ひと月が経ったある日のことである。
 その朝、朝飯を食べながら、トンジュが言った。
「今日は一日、遠くまで出かけるつもりですが、一人で大丈夫ですか?」
「私なら大丈夫よ。心配しないで」
 サヨンは雑炊を掬っていた手を休め、トンジュを見た。
「―こんなことを言いたくはないのですが、まさか逃げ出したりはしませんよね」
 トンジュが探るような眼で見つめている。
 サヨンは笑って首を振った。
「どうせ逃げ出したって、すぐに道に迷っちゃうんでしょ。何しろ、この森ときたら、海のように深くて、どこがどこに続いているかさえ判らないんだもの。私だって、生命は惜しいの。無駄死にしたくはないし、白骨死体になるのはご免蒙りたいのよ」
「それなら良いのですが。笑っている場合ではありませんからね。もしかしたら、サヨンさまは俺が脅しているだけだと思っているのかもしれないけど、この森は本当に危険なんです。よく知らない人が迂闊に入り込めば、絶対に迷います。くれぐれも早まったことだけは考えないように」
「一つだけ訊いて良い?」
「何ですか?」
 トンジュは早くも食べ終えたようだ。雑炊の入っていた器と木匙を重ねて立ち上がろうとしている。
「トンジュは今日、どこに行くの?」
「俺のことが気になります?」
 トンジュがどこか嬉しげに言う。
 サヨンは狼狽して、つい声がうわずった。
「な、何を言うのかと思ったら。トンジュは少し自意識過剰なのよ。私はただ、遠くって聞いたから、どこまで行くんだろうと思って」
 トンジュが笑った。
「麓の町ですよ。だから、今から出れば夜には戻れます。良い子で留守番していて下さいね」
 まるで駄々をこねる妹を宥める兄の口調そのものである。
「山を下りるの?」
 サヨンは眼を丸くした。
「はい、そろそろ一度町に出て、纏まった食糧やら衣糧やらを買い足しておかないとなりませんから。まだやっと二月の終わりです。寒さはこれからも長い間、続きますよ」
 トンジュが話している間に、サヨンも食べ終えた。慌てて自分の器と木匙を持ち、立ち上がる。
「あ、今朝くらいは私が洗うから、トンジュは出かけるなら、出かけてちょうだい」
「良いですよ。町に行って帰るくらい、別にたいしたことではないんです。俺がやりますから、サヨンさまは休んでいて下さいね」
「大丈夫だってば。器も匙も鍋も割れ物じゃないから、落としたって平気よ」
 実のところ、食事の支度だけでなく、後片付けまでトンジュが手際よくこなしてしまうのだ。
「おや、俺がさんざん苦労して作った木彫りの器を二度、真っ二つにしたのは、どこの誰でしたったけ。普通、木なんてものは割れないはずなのに、よほど強く落としたんでしょうね」
 悪戯っぽく言われ、サヨンはむうと頬を膨らませた。
「トンジュの意地悪」