ずっと朕の傍にいて欲しい。帝から改めての求婚に私は、、小説 月下の契り~想夫恋を聞かせ | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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小説 月下の契り~想夫恋を聞かせて~


「そんなに簡単なことなのでしょうか?」
 薫子の疑問に、継母は笑った。
「難しく考える必要は何もありませんよ。二の姫、男女の色恋というのは学問ではありません。難しい理屈で応えを導きだそうとしても出せるものではない。それでは、もっと判りやすく言いましょう。この際、帝と承平という男が別人であろうが、同じ人間であろううが、どうでも良い。大切なのは、あなたの気持ちです。あなたがどうしたいのか。同じ男であると知っても既に心が離れてしまったのか、それとも、帝であると知ってなお恋い慕う心は募るばかりなのか。あなたが決めることです」
「母上」
「良いですか、最後に決めるときは自分の気持ちに正直におなりなさい」
「私が今も帝をお慕いしているかどうか、それが大切だとおっしゃるのですね?」
「そうです。言い換えれば、承平なる者をまだ愛しているかどうかと申しても良い。愛が冷めたかどうか、それがこれからのあなたの生き方を決めるのではないかと思いますよ」
 継母はこれまで見たことのない温かな笑顔で言い、帰る間際には薫子をそっと抱きしめてくれさえしたのだった。
 更に継母は抱きしめた薫子に囁いた。
「幸せにおなりなさい。大姫が果たせなかった分まで、めぐり逢った誰かに恋して、悔いのない人生を生きてちょうだい。そして、いつの日か、可愛い子宝に恵まれて、孫の顔を殿と私に見せてね。私は正直、あなたが選ぶ男が誰でも良いのです。ただ、あなたが幸せにさえなってくれれば。あなたもきっと母にれば判りますよ。母親というものは、子が幸せである限り、自分も幸せでいられるの」
 物心ついてから、どれほど母に愛されたいと願ったことか。初めて抱きしめられた母の懐は温かく、甘い香りがした。
―姉上、ありがとうございます。
 薫子は継母の夢枕に現れたという姉に向かって、両手を合わせた。


 運命のその夜がやってきた。参内してひと月、既に神無月も終わりに差し掛かった夜のこと、突如として飛香舎に帝のお渡りがあった。ちなみに飛香舎というのは庭に藤が植えられていることから、〝藤壺〟の異名でも知られる。後宮の殿舎の一つだ。薫子は入内後、この藤壺を住まいとして与えられていた。
 後宮に幾つか殿舎があり、むろん帝の后妃たる皇后、女御、更衣たちが暮らす場所ではあるのだが、どの殿舎を与えられるかは妃たちの身分によって決まり、后妃の中での格も自ずと知れる。
 まず、薫子の与えられた飛香舎と弘徽殿は帝の住まいである清涼殿に最も近く、従って身分の高い皇后や女御に与えられた。清涼殿から遠ざかっていくにつれ、住まう妃の身分も低くなる。いちばん遠いのは淑景舎(桐壺)である。通常、更衣でさえない尚侍が後宮殿舎の中でも筆頭の后が与えられる飛香舎を与えられることはない。
 現在、二十歳の帝の後宮に正式な后妃は一人もなく、住まうのは薫子一人だ。帝の尚侍への寵愛がいかに厚いか判るというものだった。
 今は季節柄、藤の花は見当たらないけれど、その代わりに庭にはそれは見事な萩が植わっていた。萩の花は紫に近いピンクと白、それぞれがたっぷりと細かな花をつけて重たげにしだれている。萩の花の野原の向こうに大きな満月がくっきりと紫紺の空に浮かび上がっていた。
 今宵の月は手を伸ばせば届きそうなほど近い。蒼ざめた月は黄金に輝き、月の表面に刻み込まれた模様まで一つ一つ見えそうだ。
 虫の声がしきりに響いている。眼を閉じれば、虫の音の海の中にいるようだ。
 帝のお渡りがあったと聞いた時、薫子は覚悟を定めていた。前もっての知らせはなく、突然の思い立ったかのような来訪ではあったが、この時間に来たからには当然ながら、夜伽を命ぜられるとばかり思っていた。
 しかし、呼ばれていった場所は庭だった。しかも、何とも典雅な笛の音が虫のすだきに混じり、夜陰に溶けている。薫子はしばし立ち止まり、その音色に聞き惚れた。
 ふっと笛の音が止んだ。長身の帝がゆるりと振り向いた。
「参ったか」
 薫子は愕きを隠せなかった。帝は夜着ではなく、くつろいだ直衣姿であった。もちろん、薫子も夜着ではなく、五ツ絹(女官の略礼装)だ。
「この曲を何と申すか知っているか?」
 突如として問われ、薫子は首を振った。 
「失礼ながら、存じません」
 帝が小さく笑った。
「それも道理だな。これは朕が作った即興の曲だから」
「主上がお作りになったのですか?」
 先刻の笛も見事なものだったが、作曲の才もあるとは知らなかった。あの吹き様では、当代一の奏者といっても通るのではないか。薫子自身も多少は琴の心得があるゆえ、楽器のことは少々なら理解できる。
「何という曲なのでしょうか?」
 興味をひかれて、つい訊かずにはいられなかった。
「想妻恋という」
「想妻恋にございますか?」
「そう、妻を恋しく想う男の心情を表した曲だ。想夫恋はそなたも存じておろう。あれの対になるような曲を作ってみたかった」
 想夫恋は昔から伝わる有名な曲だ。
「そのような曲を贈られる女人は幸せな方にございますね」
 薫子が呟くと、帝が眉をつり上げた。
「その世にも幸せな女人は、朕の後宮には一人しかおらぬ。朕の寵愛を受けるのはそなただけだとその身がよく存じているのではないか」
「主上、私は」
 言いかけるのに覆い被せるように帝が言った。
「先日のことは済まなかった。そなたに行かれてはおしまいだと焦るあまり、取り返しのつかぬ失態を犯してしまった。あれで、そなたが朕という男を見下げ果てたヤツだと思ったとしても、それは仕方のないことだと思っている。そなたには申し訳ないが、朕はそなたを諦めることはできぬ。だが、そなたがどうでも朕の側にいたくないというなら、朕はこの際、そなたを手放そうと思う。これ以上、そなたに執着して嫌われたくない」
 帝に押し倒され、陵辱されそうになった出来事を思えば、心はしんと冷えてゆく。いや、彼に対しての想いが冷えてゆくというより、恐怖の方が先に立つのだ。
 けれど、彼を嫌いになったかといえば、そうではない。あんな仕打ちをされた後でも、まだ、この想いは止められない、止まらない。
 私はまだこの男が好き。薫子は改めて恋しい男を見つめた。承平であり、帝であり、薫子が十六年の生涯で初めて恋した男がそこにいた。
「朕もいつまでも中途半端なままでいるのは辛い。今、ここで応えをくれぬか? いつか私の作った想妻恋をそなたと共に奏でてみたい。そなたは聞けば、箏の琴の名手だというではないか。朕の笛と是非、手合わせしてくれまいか」
 その返事が事実上、後宮に―帝の許にとどまるかどうかの応えになるのは判っていた。
―良いですか、最後に決めるときは自分の気持ちに正直におなりなさい。
 継母の声が背中を押してくれた。帝が固唾を呑んで応えを待っている。これほどに望んでくれる男に出逢った、出逢えた。女として、こんな幸せなことがあるだろうか。
 たとえ、この方が至高の位にあるお方であろうが、市井に生きる賤の男であろうが、私は構いはしない。
 薫子の愛したのは他の誰でもない、〝承平〟なのだ。