身を寄せた酒場を手伝うことになった香花。酔客に絡まれ 小説 月下にひらく華 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
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最終話 漢陽の春 


恋は人を変える。光王と知り合うまで、香花は他人を妬んだことも羨んだこともなかった。だが、今はどうだろう。かつて光王の愛人であったこの女将に嫉妬している。
 我ながら嫌な女になってしまったと、それが少しだけ哀しい。
 香花の心中を知ってか知らずか、女将は破顔する。
「あんたもつくづく変わってるというか、面白い娘だね。恋仇の許に飛び込んでくるなんて。流石に、光王の選んだ女だけあって、肝の据わった女だよ」
「恋仇?」
 何故、自分が女将にとって、〝恋仇〟なのだろう? 自分とこの女人とでは、所詮、勝負にならない。世間を知り尽くした大人の女と世間知らずの子どもでは、どちらが魅力的かと問われれば、男がどちらを選ぶかは応えを聞かずとも判るというものだ。
 と、女将は、ころころと笑った。男のように豪快に笑うかと思えば、愛らしい少女のように笑う。くるくると表情を変えるところも、男にとってはまた、この上ない魅力となろう。
 女将の魅力を知れば知るほど、香花は心が沈んでいった。こんなに臈長けた女人と付き合えば、自分なんて、三つの子どもくらいにしか見えないだろう。
 私って、何て嫌な女。
 これから世話になろうとしている人に、こんな邪な想いを抱くなんて。
 どんどん自己嫌悪に陥ってゆく香花を見つめ、女将は大袈裟に肩を竦めて見せた。光王がよくする仕種だ。二人が同じ仕種をしたからといって、別にどうということはないのに、また女将と光王を結びつけてしまう。
「馬鹿だね、文字は読めて難しいことは知っていても、男と女の何も知っちゃいないんだねえ」
 大仰に嘆息して見せながら、呆れたように言った。
「初めて見たときから、私はあんたを憎らしい娘だと思ってたよ」
 香花は茫然と女将を見返すしかない。女将と自分では勝負にならないはずなのに、何故、自分が女将の憎しみを受けるのか判らない。
 香花は言葉の意味を計りかねた。
 その様子を見た女将は吹き出し、香花の頬にかかったひとすじの髪の毛を手で撫でつけてやる。
 その手つきは意外なほど優しくて。
 香花に十一年も前に亡くなった母を思い出させた。
「ああ、本気で相手にするのが阿呆らしくなっちまった。二年前、あんたをひとめ見た時、この娘は必ず光王の心を射止めるだろうと思った―いや、この酒場にあんたを連れてきたその時、既にあの男はあんたに惚れてたんだよ。所詮、あんたとあたしじゃ、端から勝負にはならなかった。だから、私はあんたみたいに若い子に年甲斐もなく嫉妬したのさ」
 香花は、初めて素直な胸の内を女将に打ち明けた。
 六歳の時、自分を生んだ母が死んだこと。
 先刻、女将が髪を直してくれた時、唐突に、遠い昔に亡くなった母を思い出してしまったこと。
 その話を聞き、女将はまた笑って、
「失礼な娘だねえ、あたしはまだこれでも三十七だよ。あんたの母親には少しばかり若すぎやしないかい」
 そう言っておいてから、ふと〝あんた、ところで幾つ?〟と問うてくる。
「十七です」
 と、応えれば、女将は額を押さえて呻いた。
「そりゃあ、十分にあたししゃ、おっかさんだねえ」
 言葉とは相反して、女将の表情は一点の曇りもない晴れやかなものだった。まるで、憑きものが落ちたような、清々しい表情が印象的だった。
「いいよ、こうなりゃ乗りかけた舟だ、力を貸してやろうじゃないか。あんたの好きなだけ、ここにいると良い」
 そこまで言って、思い出したように笑い。
「光王にも少し心配させてやった方が良い。良いかい、男ってのは、どういうわけか一度手に入れた女は粗略に扱っても良いと思うんだ。それまで眼の色変えて、追っかけてたことなんか忘れたように、今度は別の女に夢中になる。特に、あの人はモテるからねえ。今の中(うち)に、もっと女房を大切にするってことを教えてやっといた方があの人の身のためさ」
 女将は、とんでもない悪戯の計画を思いついた子どものように眼を輝かせ、もう一度、香花に片眼を瞑って見せた。
 まるで、悪戯を一緒に決行しようとでもいうように、香花に意味ありげな視線をくれる。
「あたしたちは、これでもう共犯者だね」
 その屈託ない笑顔には、二年前に見せた刺々しさや悪意はもう微塵も見当たらなかった。

 翌日、香花は店の手伝いをしていた。折しも時は昼過ぎ、夜に次いで、店が最も賑わう時間帯である。
 客の注文を訊き、それを厨房の女将に伝える。町外れの場末の酒場としては、まずまずの店だが、どうやら雇い人は置かず、彼女一人で切り盛りしているらしい。
「助かるよ。若い娘を雇おうと思ってるんだけど、なかなか気に入った子が見つからなくてさ。幾ら別嬪でも、こういうのは気働きができなきゃ、到底務まらない商売だから。ただ綺麗なだけの子は、うちは使わないんだよ。そういう娘には、うちみたいな薄汚い酒場より妓房に行きなって断ってるんだけどね。あんたみたいな娘がいてくれりゃ、うちの店も繁盛するよ」
 女将は小声で囁き、ニッと笑った。
「はい、これは、向こう―いちばん奥の若い二人連れの分ね」
 女将は盆に乗せた丼飯二人分と酒を香花に渡しながら、思いついたように耳打ちした。
「それから、これだけは気をつけるんだ。客の中にはうちを妓房と勘違いしてくる輩もいるからね。そういう手合いは、上手に交わすんだよ? まともに相手なんかせず、適当なことを言って、逃げておいで」
 〝はい〟と、香花は返事をして、受け取った盆を運ぶ。
 教えられたとおり、最奥の卓まで運んでいったときのことだ。また、あの烈しい吐き気が胃の腑の底からせり上がってきた。それを堪えるのに精一杯で、職人らしい二人の若い男たちが香花にボウッと見惚れているのにも気付かない。
た。
「誰だよ、見かけない娘だな」
「新しく雇った娘だろ」
「えらい器量良しじゃねえか。一度口説いてみるか」
 普段なら聞き逃すはずない話し声も、今は全く耳に入らない。
 無事運び終え、厨房まで戻ってきたときには、香花の白い面は蒼白になっていた。
「見たかい? あの二人連れの顔。二人共、まるで腑抜けたようにあんたの顔に見惚れてたよ。あたししゃ、あの二人があんまりあんたばかり見てるんで、あんたのきれいな顔に穴が空くんじゃないかと―」
 言いかけた女将がハッとした。
「大丈夫かい、具合が悪いんだね?」
 そのときだった。
 ひときわ凄まじい吐き気に見舞われ、香花はウッと小さく呻き、思わず口許を手のひらで覆った。
 弾みで手にした盆を落としてしまう。幸いにも既に盆の上のものは運んだ後だったので、被害はなかった。
 その場に這いつくばって蒼い顔で咳き込む香花の背を、そっと女将の手が撫でる。
「言いにくいことを言うようだけど、あんたは孕んでるね?」
 女将には隠しても意味がない。
 香花は二度ゆっくりと頷いた。
 女将が〝やっぱりね〟と顎を引く。
「おかしいとは思ってたんだ。あんたくらいの歳頃の娘は、愕くほど飯を食うもんさ。なのに、あんたは小鳥がついばむよりもまだ少ないくらいしか、食べなかっただろう。もしかして―とは考えたけど、どうやら勘は外れてはいなかったようだねえ」
「隠していて、ごめんなさい」
 謝れば、女将は笑った。
「何もあんたがあたしに謝るようなことじゃないだろう。それよりも、これからどうするんだい? 身重の身体で一体、どうやって一人で生きてくつもりなんだえ? やっぱり、光王に話した方が良いよ。あんたの腹の子は、光王の子でもあるんだ。あの男にも知る権利はあるはずだよ」
 その言葉に、香花は過敏なまでに反応した。
「お願いです! 光王には何も言わないで下さい。お願いだから、あのひとには何も知らせないで下さい」
 そのあまりの剣幕に、女将が眼を丸くした。
「どうして? まさか、赤ン坊が光王の種じゃないってことはないでしょ」
「違います!」
 即座に否定した香花を見つめ、女将は悪戯っぽく肩を竦めた。
「ごめん、んなわけないよね。あんたは天地が真逆になっても、そんなことのできる娘じゃないもの」
 あたしが悪ふざけが過ぎたよ。
 女将がそう言った時、客席の方が声が飛んできた。
「おーい、女将。いないのか~? 酒をもう一本頼むよ」
「はーい。今、参ります」
 女将は愛想の良い営業用の声で返し、香花には奥で休んでいるようにと言い、慌てて駆けていった。
 女将の許で厄介になって、数日が過ぎた。
 その日も、香花は店に出て働いていた。まだ休んでいろとしつこく言われたが、じっと寝ているのも性に合わない。あの産婆がくれた薬も効いてきて、大分楽になった。殆ど食べられなかったのが、ほぼ以前のように食事を取ることもできるようになった。
 通りすがりの女が教えてくれたように、腕も診立ても確かなのだろう。
 今日もまた、件(くだん)の二人組が中央の卓に座っていた。どうやら、この二人の若者は香花に夢中なようだ。ここ数日、姿の見えなかった香花を認めると、互いに意味深な目配せをした。
 蒸し鶏と酒を運んできた香花の顔や身体をちらちらと物欲しげに見ている。もっとも、香花がそんな男たちの嫌らしげな視線に気付くはずもない。
 料理を運び終えた香花が一礼して戻ろうとするのに、一人が〝ねえ〟とその腕を掴んだ。
「―!」
 香花の華奢な身体が恐怖に強ばった。
「君、名前は何て言うの?」
「可愛いよね。歳は幾つ? 今日、店が終わったら、俺たちと遊ばないか。美味い飯を食わせる店を知ってるんだ」
「きれいな櫛やノリゲを売ってる店もあるぜ」
 二人が代わる代わる香花の気を引こうと必死の攻勢である。
 香花の可憐な面がたちまち蒼褪めた。
「おい、黙って突っ立ってないで、何か言えよ。酒場の女のくせに、両班のお嬢さまのように気取るんじゃねえや」
 香花は懸命に掴まれた手を振りほどこうとするも、まるで絡みついたかのように離れない。ねっとりと汗ばんだ男の手が気持ち悪い。それよりも、自分に向けられる粘着質な視線の方がもっと怖かった。