ユン家に囚われの身となった香花、光王の焦りは募るばかりで。小説 月下にひらく華 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
小説がメイン(のつもり)ですが、そのほかにもお好みの記事があれば嬉しいです。どうぞごゆっくりご覧下さいませ。

第4話 ユン家の娘


「今度、うちに泊まっていってくれたら、考えても良いけど?」
 冗談だろうと叫びたいのを堪える。顔が引きつりそうになるのは、女将だけではなさそうだ。
 と、女将が低い声で笑いながら、手のひらをヌッと突き出した。
「ふふっ、今のは冗談。くれるものをちゃんと出せば、情報はちゃんと渡すよ」
「ちっ、どこまでも抜け目のない婆さんだぜ」
 光王は懐から小さな巾着を出し、小銭を女将の手に載せる。
 悪態をついた光王に腹を立てる風もなく、女将は低声で囁いた。
「県監さまの屋敷の者だって男が連れ立ってきてね。あんたの妹について色々としつこいくらい訊いてたよ」
「―何だって」
 光王の眼が殺気立つ。
「おお、怖」
 女将が笑いながら言う。
「あんたのその眼が何よりも妹が妹じゃないって訴えてるのに、あんたはそれでもまだシラを切るのかねぇ。どうも、そいつらはここだけでなく、ソロン村まで出張って、あんたたちのことを嗅ぎ回ってるみたいだった。あたしにも色んなことを訊いたからね」
「例えば?」
「さあ? これ以上、教えてあげる義理は生憎とあたしにはないけどさ」
 光王は舌打ちして、また幾らかの銭を載せる。
 女将は笑って続けた。
「あんたらが本当の兄妹なのかってことも訊いてきたね。後は、あんたらがどこから来たのかってことも」
「それで、女将は喋ったのか?」
「だって、あいつらもそれなりの対価を払ってくれたからさ。喋らないわけにはゆかないだろ。まあ、知ってることは教えてやったさ。兄妹だって言い張ってるけど、どう見てもそうは見えないとか、あんたらが漢陽から来たらしいってことくらいのもんかねぇ」
―この糞婆ァ、殺してやろうか。
 一瞬、本気で考えたほど、腹が立った。
「ま、その程度しか教えちゃいないから、安心しなよ」
 のんびりと言う女将に、光王は噛みつかんばかりの剣幕で言った。
「それだけぺらぺらと喋れば、十分すぎるだろうが」
 光王は注文した飯もそこそこに、立ち上がった。
「毎日のように顔を出してるのに、何で今になって、そんな話をする?」
 気になって問うと、女将は皺に埋もれた眼をまたたかせた。
「さっきも言っただろう。あたしは何もあんたに義理立てする筋合いも義理もないってね。たまたま、あんたの顔を見て妹の話をしたから思いだした、ただそれだけ」
「全く、喰えない婆さんだぜ」
 笑いながら言ってやる。
「お互いさまだね」
 女将も笑いながら返してくる。ふと振り向いた光王に、女将が不思議そうに訊ねてきた。
「どうかした?」
「いや、今、一瞬、あいつの声が聞こえたような気がして」
 その科白に、女将が真顔で呆れた。
「あら、やだ。他人の前でそこまで惚気(のろけ)るんじゃないよ。光王、あんた、それだけ惚れてるのに、どうして、黙って指をくわえてるんだい。さっさと抱いちまいな。あんたほどのタラシが妹のこととなると、まるで一人の女を知らない男のようになっちまうなんて、ちゃんちゃらおかしいよ」
「―大きなお世話だ」
 光王は呟くと、片手を上げた。
「じゃあな、また」
「毎度!」
 威勢よく返しながら、女将はうっとりと光王の後ろ姿を見送る。
「いつ見ても、惚れ惚れするほど良い男だねぇ。あたしがあと三十年、いや、二十年若ければ、冗談でなくモノにしてやるんだけど」
 女将は白粉を塗ったくった顔をしわくちゃにして笑い、肩を竦めた。
 一方、酒場を後にした光王は、嫌な胸騒ぎがしてならなかった。
―光王、光王ーッ。
 先刻、女将と話していた最中、確かに香花の声が間近で聞こえたと思ったのだが、あれは一体、何だったのだろう。
 本当ならまだ昼からもひと仕事するはずなのだが、今日はもう村に帰るつもりだった。
 香花の無事なことを確かめれば、この不安もすぐに消える。
 光王はそう自分に言い聞かせながら、急ぎ足で帰り道を辿り始めた。

 だが。
 彼の期待に反して、香花は家にいなかった。狭い家中を探し回っても、いない。
 光王は狂ったように外に飛び出し、隣の朴家はむろん、心当たりはすべて行った。その日の朝、朝飯を食べながら、香花が萬安の家に卵を届けに行くと話していたのを憶えていたからだ。
 そこでも、彼はまた気になることを聞いた。光王が訪ねた時、萬安は丁度、村長の家まで出かけていて留守だったが、彼の妻が教えてくれたのだ。
 丁度、奥で赤ン坊に乳をやっているところにも拘わらず、嫌な顔もせず、すぐに赤児を抱いて出てきてくれた。
「実は、少し前に変な人たちが来たんですよ。光王や香花のことについて色々と訊いてきて」
 その話が先刻の酒場の女将の話と妙なくらい符合している。
「それは、もしかしたら十日くらい前のことかい?」
 光王が問うと、萬安の妻は大きく頷いた。
「そうですよ、丁度、そのくらいですよ。二人がどこから来たのか、とか、香花と光王の関係はどうなのかって、もう煩いったら、ありゃしないくらい」
 やはりと思った。酒場の女将に訊ねた内容と一致している。
 光王の沈黙を勘違いしたのか、萬安の妻は笑った。
「大丈夫ですよ、あいつらには何も話してませんから。ごめんなさいね、もっと早くに伝えにいけば良かったのに、ウォングの世話や畑仕事にかまけてしまって、こんなに遅くなっちまった。光王や香花にはいつも良くして貰ってるのに」
 心底済まなさそうに言うのに、光王は首を振った。
「そんなことは気にしないでくれ。互いに忙しいのは皆、同じだ。俺も商売にかまけていて、ウォングの顔を見にもこれなかったしな。それよりも、もう一つ教えて貰いたいんだが、その変な奴らっていうのは、県監の旦那の屋敷の下男だってかい?」
「ええ、確かに県監さまの屋敷の使用人だって言ってました」
 萬安の妻が頷いたところに、耳をつんざくような声が空気を震わせた。見れば、萬安の妻の腕の中で、赤児のウォングが盛大に泣き喚いている。
「ごめんな。飯の途中に邪魔して、悪かった」
 光王は赤ン坊のすべすべした頬を指先でつつくと、萬安の妻に言ってやった。
「この馬鹿でかい声は、やっぱり、父親似なのかねぇ。こいつも将来は大物になるよ、奥さん」
 その言葉に、萬安の妻は満更でもない顔で頷き、愛想よく言った。
「また商売の方がひと段落ついたら、お酒でも飲みにきて下さいよ、うちの人も待ってますから、ああそうだ、香花も一緒にね」
「ありがとう、そうさせて貰うよ」
 光王は顔をほころばせると、暇乞いをして萬安の家を後にした。
 そして、そのまま隣村までの道を辿っていた光王は途中で、地面に散らばった無数の石榴や栗を見つけた。その場所は隣村にもほど近く、県監の住まいも眼と鼻の先だ。
 この籠は香花が使っているもので、萬安の許に卵を届けにゆくときも、これに卵を入れているのを彼はよく知っている。
 籠が落ちていたのは、観音像らしい石仏の手前だった。誰かが供えたのか、熟れた艶やかな石榴が一つ、ぽつんと置かれている。
 鮮やかな朝焼けの色を閉じ込めたような色の実を、緩慢な動作で光王は拾い上げた。
 恐らく、香花はここで県監の屋敷の下男に襲われたに違いない。
「馬鹿者が。俺があれほど、県監の屋敷にき近づくなと言ったのに」
 光王は歯噛みする。
 香花を攫ったのが県監ユン徳義その人ではなく、妻の理蓮の方だとは容易に予測がつく。あれほど人望もあり、人格的に優れた男が他所の娘をかっ攫うなどとはおよそ考えがたい。
「許せねぇ」
 光王は無意識の中に拳を握りしめる。たとえ相手が女だとはいえ、香花に傷をつけたり、生命を奪ったりするようなことをすれば、生かしてはおくものか。
 香花は光王にとっては、かけがえのない宝なのだ。香花を苦しめ泣かせる者は、この自分が許さない。
 路傍の苔むした石仏は、香花があの女の手の者に連れ去られる一部始終を見ていたに違いない。
「待ってろ、香花。今、助けてやる」
 光王は静かな決意を秘めた瞳を燃え立たせながら、物言わぬ石仏を見ていた。


 眼の前のソンジュが困り果てたように小さな吐息を吐く。
「お嬢さま(アツシー)、どうかお願いだから、少しでも食べて下さいまし」
 懇願するソンジュの様子だけを見れば、香花が囚われの身で、ソンジュがその世話係だとは思えず、むしろ、その逆にさえ見えなくもない。
 今、香花の脚許には粥の入った器と匙の載った小卓が置かれていた。むろん、粥はひと匙も手が付けられていない。
 ここに連れてこられて、既に丸一日以上が経っている。今、自分が閉じ込められているのがそもどこなのか、香花にはおおよその見当がついていた。灯台下暗しというように、理蓮は香花を我が住まい―つまり県監の屋敷に隠したのである。
 恐らく、今、監禁されている場所は、四阿からもかいま見えた物置小屋だ。現に、香花の推量が的中しているのを物語るかのように、狭い室内には石臼や鋤、鍬、大きな竹籠などが雑多に放置されている。最近はあまり出入りする者もいないようで、それらは長い間、使用された形跡もなかった。
 小屋の中は埃がうずたかく積もり、蜘蛛の巣があちこちにかかっている。鋤や鍬に至っては、錆び付いていて、これでは使いものにならないだろう。
「こんな薄汚いところにずっといては、それこそ本当に病気になってしまいます。奥さまはお嬢さまをご養女にとお考えになっているほどだから、お嬢さまがひと口でも食べて下されば、すぐにお屋敷内のどこかちゃんとしたお部屋に移して下さいますよ。ね、だから、ひと口だけでも召し上がって」
 ソンジュの懸命な説得にも、香花は頷かない。ここに連れてこられる途中で気を失った香花が次に眼を覚ましたのは、既にここに運び込まれてからだった。意識を失う寸前、香花は自分を拉致した男たちの一人の顔をやっと思い出した。
 後方から追ってきた背のやたらと高い、痩せぎすの男は、この屋敷の下男だったのだ。何故、香花がその男の顔を朧に記憶していたかといえば、腰痛で動けなくなっていた理蓮を助けた日、香花は屋敷内でその男を見たからである。四阿に案内され、茶菓でもてなされた香花の前に理蓮の命令で大きな包みを運んできた男―それが、あの下男だった。
 だから、どこかで見たような気がしたのだ。
 しかし、思い出したときには、もう遅かった。
 つい先刻まで、香花は猿轡をされ、手脚も縛られていた。手脚をできるだけ傷つけない配慮か、縛っているのは縄ではなく、柔らかな布でできた紐である。