今もあの子は生きている。愛娘を失った奥方の哀しい狂気。 小説 月下にひらく華 | FLOWERS~ めぐみの夢恋語り~・ブログで小説やってます☆

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Every day is  a new day.
一瞬一瞬、1日1日を大切に精一杯生きることを心がけています。
小説がメイン(のつもり)ですが、そのほかにもお好みの記事があれば嬉しいです。どうぞごゆっくりご覧下さいませ。

第4話 ユン家の娘


―奥さまはお嬢さまを亡くされた哀しみで狂ってしまわれた。
 古くからの使用人たちまでがそう囁き合っている。
 徳義は部屋の前で深い吐息を人知れず洩らし、両開きの扉を開ける。
「気分はどうだね、夫人(プーイン)」
 できるだけ自分の表情が屈託ないものであめることを祈りながら、徳義は穏やかに問いかけた。
 良人を認めた妻理蓮は立ち上がり、上座を彼に譲る。彼は鷹揚に頷き、軽く頭を下げる妻の前を通り、それまで妻が座っていた座椅子に腰を下ろした。
 理蓮は徳義から少し距離を置いた、やや下方に座る。
 改めて妻の顔を見、更に部屋をひと眺めした徳義が小首を傾げた。 
 部屋中に、眼にも鮮やかなチマチョゴリが何着も無造作にひろげられているのだ。
 良人の視線に気付いたのか、理蓮は嬉しげに微笑んだ。
「夫人、近頃、やけに愉しそうだな」
 問いつめても逆効果だと判っているので、徳義もまた物柔らかな笑みを浮かべて応じる。
「旦那(ヨン)さま(ガン)、これをご覧下さいませ。どれも美しい色合いでよく仕上がっておりますでしょう?」
 徳義は笑いながら訊ねた。
「確かに美しいが、そなたには少し派手すぎるのではないか?」
 と、理蓮がホホと華やかな笑い声を上げる。
 徳義は一瞬、ハッと妻を見た。理蓮がこのように明るく笑うのは、二年前、素花が亡くなってからこれまで一度もなかったのだ。
「いやですわ。こんなお婆さんが着たって、かえって珍妙に見えるだけですよ。これは、私のものではございません」
「では―、誰かに差し上げるために作らせたのか?」
 徳義は思い当たる娘の顔を思い描いてみるが、徳義の親戚にも理蓮の親戚にも、そのような娘はいない。徳義、理蓮の兄弟姉妹共に、既にその子らは四十近い年齢に達していて、むしろ、孫たちが十代前半から後半に差しかかろうとしている。
 自分たちは娘を授かるのに十八年を要したが、他の兄弟姉妹たちは結婚後、一、二年―遅くとも数年内に初めての子を儲けている。考えてみれば、素花は孫と言っても良いほどの歳で漸く得た子であった。
 その娘が十八歳、これから花開くという歳で突然、夭折してしまったのだ。母である理蓮の心が哀しみに凍ってしまったとしても不思議はない。
 想いに沈む徳義の耳を、理蓮の明るい声が打つ。
「あなた(ボシヨヨ)、あの子が、素花が私たちのところにやっと帰ってきたんですよ。あの娘ももう今度こそ嫁入りが近いのですもの。この際、金に糸目は付けず、できるだけの嫁入り支度を整えてやりましょう」
「そなた―、何を言っている。素花は二年前に亡くなった。あの娘が帰ってくることはない」
 徳義は茫然と呟いた。
 だが、良人の言葉は理蓮の耳を素通りしているようだ。
「お相手の父君は何しろ兵曹参判の要職でいらっしゃるのだから、我が家しても、それにふさわしい支度をしてやらねば。あまりに貧相では、素花があちらのお宅で肩身の狭い想いをしてしまいます」
 理蓮が浮き浮きと言うのに、徳義は絶句した。
 確かに二年前、素花と都の両班趙家との間では縁談が進んでおり、婚約寸前であったことは事実だ。当事者の素花と相手の子息はまだ一度も対面したことはなかったが、漢陽から送られたきた相手の姿絵は凛々しく、素花もひとめで気に入ったようであった。
 もとより素花の美しさ、賢さは都まで轟いていたゆえ、向こうは最初から大乗り気で縁談は順調に進んでいたのだ。婚礼支度もそろそろ始まっていた矢先、素花を哀しい不幸が襲った。まだ見ぬ許婚に嫁ぐ晴れの日を夢見ていた娘は、ついにその日を迎えることなく十八歳で逝った―。
 相手の若者は二十二歳で、司(サ)憲(ホン)府(プ)に勤務すする官吏であった。浮ついた女性関係の噂も一切なく、真面目な良き人柄だという評判であった。彼の父はまた兵曹の次官であり、徳義、理蓮ともに願ってもない良縁だと歓んでいたのだ。自分の出世には欲のない徳義も、掌中の玉と愛でる一人娘の聟には少しでも良い家柄の出世できそうな男を望んだ。
 時折、相手の姿絵を眺めては切なげな吐息を洩らす娘を見て、徳義は
―そのように始終、眺めてばかりいては穴が空いてしまおう。どうせ婚礼が済めば、飽きるほど互いに顔を見られるのだ。それまで愉しみには取っておいて、姿絵は大切にしまっておいてはどうかな。
 と、半ば本心から、半ばからかって李ってった。
 素花は、その度に〝いやですわ、お父さま〟と白い頬を上気させて恥ずかしげにうつむいたものだった。その初々しい様がまた親の欲目にも恥じらう花のようで美しかった。
 素花の葬儀には、都の趙家からも多額の香典を携え執事だという使者がやって来たが、結局、婚約者当人が姿を見せることはなかった。徳義も一時は薄情なものだと相手の冷淡さを恨めしくも思ったけれど、婚約したとはいっても、趙家の息子と素花はまだ正式に結納を取り交わしたわけではなく、あくまでも内輪で取り決めただけのものにすぎなかった。
 正式な婚約者でもないのに、葬儀に参列を望むのは不適切であったやもしれぬと後から思い直したのである。向こうは過分の香典を贈り、代参とはいえちゃんと人をよこして参列させたのだから、十分に礼を尽くしてくれたと受け取るべきだろう。そうは思っても、やはり、親としては、執事の代参などではなく、当人に参列して欲しかったというのが本音だ。
 素花の死後、趙家との縁は切れた。風の便りに、今年の春、趙家では息子に嫁を迎えたと聞いている。それを聞いても、徳義には何の感慨も湧かなかった。
 素花はもう亡くなったのだ。相手がいつまでも死んだ婚約者に義理立てする必要はないし、徳義もまたそんなことを期待していなかった。
 それでも、やり切れない想いは、どうしてもぬぐい切れない染みのように残る。
 本当なら、その男の傍らに寄り添って花嫁衣装を纏うのは素花であったはずなのに―。
 不覚にも滲んできた涙を眼の裏で乾かし、徳義は理蓮に近寄った。
「良いか、素花は、私たちの娘は二年前、死んでしまったのだ。とても辛く信じがたいことではあるが、事実は事実として、私たちは受け容れなければならない。判るか、夫人。素花だって、私たちがあれの死を乗り越えることをこそ望んでいるだろう」
 理蓮の両肩に手を置き、顔を覗き込み、噛んで含めるように言い聞かせる。
 理蓮の双眸が一杯に見開かれる。見る間に、その表情が凍りついた。
「あなた、そんなはずがありませんわ。素花が、私たちの娘が死んだだなんて。そんな馬鹿なことがあるはずがない」
 理蓮が両手で頭を抱え、その場に蹲った。
「ああ、どうしましょう。そんな馬鹿なことが」
 うわ事のように繰り返す理蓮をしばらく眺めていた徳義は、小さく首を振り、妻のか細い身体を抱きしめた。
 随分と痩せた―。
 徳義は理蓮の儚げな身体を抱き寄せながら、熱いものが込み上げてくるのを必死に堪えた。
 今は年老いたが、かつては理蓮も都では評判の美貌を誇っていた。徳義もまた初めて理蓮の清楚な美貌を見た時、その名のとおり蓮の花のようなひとだとひとめで恋心を抱いたほどだった。
 もう随分昔のことになってしまったが―。と徳義は微苦笑を刻む。
 若い頃は朝鮮中の地方官に任命されたお陰で理蓮もまた良人に従って居所の定まることがなかった。県監といえば聞こえは良いが、地方官は中央政界で活躍する官吏などとは違い、地味な仕事だ。私服を肥やそうと思えば肥やせるし、事実、地方官を歴任して財を成した者も大勢いる。
 しかし、徳義は不正を何より嫌い、質素を心がけ領民から無益な搾取をけしてしなかった。そのため〝慈悲深い県監さま〟と行く先々の領民から慕われはしたが、その分、ユン家はいつも貧しく、内証はけして豊かとはいえなかった。
 地方官の妻として、理蓮もまた苦労が絶えなかった。使用人に至るまで細やかに気配りしてやり、相談事があれば乗ってやりと、屋敷内のことはすべて理蓮の采配で動いていた。家のことをすべて妻に任せ得たからこそ、徳義もまた安心して公務に励めたのである。
 そうやって夫婦手を携えて歩んできて、結婚十八年目にやっと待望の我が子に恵まれた。懐妊が判ったときは、これまで天に恥じることなく行いを謹んできたからだと夫婦で泣きながら歓び合ったものだ。
「理蓮」
 徳義はもう何も言えず、腕の中で身をわななかせる妻の痩せた身体を抱きしめた。


夢と現の狭間


 香花は、そっと視線を巡らせて周囲の様子を窺った。暦は九月の下旬を迎え、秋の気配はよりいっそう濃くなっている。むろん、まだまだ昼間は厳しい残暑だが、朝夕に吹く風はひんやりとして、本格的な秋も近いことを告げている。
 光王と約束した手前、香花は隣村のユン家まで行くことはなかった。この半月間、何度かユン家の薔薇を見たいという衝動に駆られたものの、結局、行かずじまいでいたのだった。あの上品な老婦人が気狂いだとは俄には信じがたいが、あのときの光王の真剣さは、あながち一笑に付してしまうことはできないものがあったからだ。
 だが、やはり誘惑には勝てなかった。香花はその朝、ついに家をこっそりと抜け出し、隣村まで出かけた。もちろん、堂々と県監の屋敷にゆく度胸はない。隣村へと続く小道をゆっくりと辿りながら、その日幾度めになるか判らない溜息を洩らす。
 狭い砂利道の脇に、ひっそりと石仏が安置されている。石が風化してしまって、しかとは判別ではないが、観音菩薩を彫ったものだろうか。
 香花はしゃがみ込んで祈りを捧げた後、立ち上がった。石仏の少し先からは、道端に石榴の樹が数本並んで植わっている。生え方を見た限りでは、自然に自生したものに違いない。実りの季節を迎え、どの樹も紅い艶やかな実を鈴なりにつけている。
 香花は手頃な樹に近づき、一個だけ実をもぐと、観音像に供えた。更にもう一個取る。
 そのときだった、道の向こう側から低い人声が聞こえてきた。
「奥さま(マーニン)、奥さま(マーニン)」
 香花は人よりはかなり耳が良い。しばらくして聞こえてきた声は、かなり焦りを帯びていた。
「奥さま、大丈夫でございますか?」
 到底見過ごしにはできなくて、香花はその言葉を耳にするやいなや、駆け出していた。 手にした石榴は急いで懐にねじ込む。
 どうやら、どこかのお屋敷の主従のようだ。少し手前に座り込む女性と懸命に介抱する使用人らしい若い女の姿があった。
「どうかしましたか?」
 香花が気遣わしげに声をかけると、まず若い使用人の方が弾かれたように顔を上げた。
 香花を認めた一瞬、その娘の表情が強ばったように見えたのは、気のせいだったろうか。
 それにしても、どこかで見たことのある娘のような気がするのだが。
 その女の顔に狼狽が走ったのはほんのひと刹那のことだった。彼女はいかにもよく躾けられた使用人らしく、いつまでも不躾に香花を見つめていることはなく慎ましく視線を逸らした。