皆様、おはようございます。
先週でしたか、岡山の繁華街まで出かけた時、サンリオショップに立ち寄り、
いちご新聞二冊を受け取って帰りました。
まあ、季節的にバレンタイン特集が目立ったのですが、
いつものように葉祥明さんの心のハーブというエッセイ&イラスト&詩
で、大変印象深い言葉がありました。
まず、その言葉そのものを抜粋します。
自分がやさしくなかったり相手に思いやりをかけられ
なかったり、相手も同様だった時、互いのやさしさや思いやりの欠如の
奥底にも、善なる心が秘められていると、あなたが信じられれば、
この世は無慈悲で冷淡な世界ではなく、生きるに値する素晴らしい所だと
思えるようになるでしょう。
更に祥明さんは言われています。
やさしさと思いやりは、相手の気持ちがわかること。だからこそ、自分が意地悪を
されたときも、相手のそのときの気持ちを推し量ってはあげることが必要だと
言っているのだと思います。
なるほど、確かに、そうかもしれませんね。
人は誰でも、イライラしたり、落ち込んだり、気分が悪い意味で落ち着かないときが
あるものです。そういう時、誰かについ必要以上に声を荒げてしまったり、当たって
しまうのは実はよくあること。
時には、そのときの自分が相手に〝当たっている〟という意識もなしに、
相手に八つ当たりしてしまって、後で気づいて自己嫌悪に陥ることも。
祥明さんいわく、たとえ自分がそんな目にあっても、腹を立てたり
相手を恨むことなく、逆に、
何故、この人はこんなにも今日は心が荒れているのか?
と考えてあげることが大切なのだと考えています。
難しい言葉になりますが、性善説という言葉がありますね。
人は誰しも生まれながらに善の心を持っているという教えです。
たとえ、と゜んな悪党でも、人を思いやる心はどこかに持っている。
祥明さんの考えてはそれに似ています。
人が誰かに辛く当たる時でも、その人の心には優しい心があるはずだというのです。
確かに、そうかもしれません。
100%、悪人になりきれるというのはよほどです。
平気で殺人を犯す凶悪犯人ならまた別でしょうが、普通の人は大抵、
悪いことをしているときでも、どこかで良心の呵責を感じていたりします。
自分が意地悪をされても、相手の心には優しさがあるのだと思いなさい。
その教えは道理にかなっていますし、まさそのとおりです。
しかし、その反面、とても難しい。
例えば、それはキリスト教の右頬を打たれたら、左頬を出しなさい、
という教えとも似ているのではないでしょうか。
自分を虐げる相手をなお信じ、良い人であると思おうというのは凡人にはなかなか
指南の技です。
誰でも自分に優しくしてくれる人、親切な人には好意をいだくものだし、
逆に意地悪をする人は嫌いになります。
それが自然な人の心の動きだからです。
ですが、祥明さんの言われるように、意地悪を仕掛けてくる相手の中に
善=やさしさがあると信じられたなら、自分自身の心はずいぶんと
軽やかにはなるでしょう。
このエッセイを読んだ時、私はこれまでの人生で遭遇した様々な嫌な出来事を
思い出しました。約束を交わしたのに、平然とそれを破った人、
何もそこまで言わなくても良いのにというようなことを、くどくどと述べ立てた人。
ブログでもやりきれない気持ちをつぶやいたことがあります。
しかし、そういう人たちもその時、どこかにはやさしさを持っていた、
もしくは後で後悔したかもしれない。
そう思うことによって、少なくとも私の心は幾ばくかは救われます。
もちろん、単なる自分を慰めるための思い込みだともいえますが-。
相手の中になる善なる心を信じる。
言葉にすると、たった一言ですが、様々な意味が含まれている奥の深い
ものだと思います。