本当の悔い改め | めぐみキリスト教会

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人はパンだけで生きるのではなく神の口からでる一つ一つのことばによる。
               新約聖書マタイの福音書4章4節

 今日は、ルカ15章11節~24節までのところから本当の悔い改め」と言う題でみことばから恵みを頂きたいと思います。

 

 今日の聖書個所には、放蕩息子のたとえ話が語られています。イエス様が聖書の中で語られたたとえ話の中でも、最も多くの人に知られているものだと思います。実は、ルカ15章には他に、「迷える一匹の羊」と「失われた一枚の銀貨」と言った、たとえ話もあります。これら三つを通して何をイエス様は語ろうとしておられるのかと言うと、その中心は「悔い改め」と言うことです。

 

 ルカ15:7では「天に喜びがある」ルカ15:10では「喜びがわき起こる」とありますから、悔い改めるということが、父なる神様にとってどんなに大きな喜びであるかということが分かります。

 

 しかし、迷える一匹の羊の場合も失われた一枚の銀貨の場合も、片や動物で片や命もないただの物でしかありませんので、悔い改めと言うことに関しては具体的なことが表れていません。この二つのたとえ話はどちらかと言うと、神の一方的な愛と言うものが表されています。でも、放蕩息子については悔い改めと言うことがどういうことなのか、そして悔い改めにはどんなことが伴うのかと言うことが具体的に語られています。

  

 それでは、11節~13節をご覧下さい。ある人に二人の息子がいました。兄は親の言うことを聞く働き者ですが、弟はどうも親の言うことを聞かない性格のようです。こういう話は、今の私たちの身近にもありうることです。

 

 しかし、ここで覚えておきたいことは、子どもはいきなり放蕩息子になるのではなくて、そうなるためには、それなりの過程と言うものがあるということを忘れてはいけません。過去の少年犯罪を思い起こしても、突然そうなったと言うことではなくてそうなる環境があったということです。

 

 この弟息子も、どうも小さい時から親の言うことを聞かない子であったようです。自我が強いと言いましょうか、よい言い方をすれば独立心があるというふうにも言えます。しかし、神の目から見れば、自己中心の何ものでもありません。ここに問題があわけです。

 

 そういう弟でしたから、早く親元を離れて一人で自由に暮らしたいと思ったのでしょう。そこで、彼は父親に財産を分けてくれと言いました。当時の定めでは、息子二人がいる場合は、兄が三分の二で弟が三分の一貰えたようです。その財産の貰うと家を出て遠くの町で暮らし始めました。

 

 13節以下を見ると、弟の好き放題している姿があります。そんなことですからお金もすぐに使い果たしてしまったとあります。その後、この弟は、食べる物にも困るほどになったのです。困った彼は、知人の所に身を寄せ仕事の世話もしてもらいました。その仕事は豚の世話です。ユダヤ人にとって豚の世話というのは、人間扱いされないというとても屈辱的なことなのです(15節)。これが、神から離れて生きている人の姿なのです。

 

 しかし、17節から大きく事が展開していくのです。実はここからが大切なところです。注目したいのは「我に返った」と言う言葉です。これは本当に目が覚めたという意味でしょう。彼の目を覚まさせてくれたものは何だったのかと言うと、それは試練です。絶望感だったのです。

 

 誰だって失敗は犯すものです。しかし、そのどうしようもない状況の中で、どういう態度をとるかによって、そこから新しい希望の道が開かれてくることもありえるのです。

 

 この弟息子も、目が覚めて分かった事は、父の家に帰る必要があるということがはっきりしたのです。悔い改めとは、心で思っただけでは悔い改めにはなりません。具体的な行動が伴われなければなりません。20節、「彼は立って父のところへ行った」と、これが悔い改めなのです。

 

 最後に、放蕩息子が悔い改めに導かれたその背後には、神の愛があったということを忘れてはなりません。実は、そのことを教えるためにこそ、放蕩息子のたとえ話に前に、迷える一匹の羊と失われた一枚の銀貨のたとえ話が語られているのです。

箴言4章20節~22節